■2011年02月21日(月)12:32  神の愛に生かされて
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■「致知随想」ベストセレクション <その50>
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  「神の愛に生かされて」
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玉城シゲ(たましろ・しげ=元ハンセン
病患者)

             『致知』2005年12月号「致知随想」
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです


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 私が郷土の沖縄から鹿児島の星塚敬愛園に
 一人でやって来たのは昭和十四年、
 太平洋戦争が勃発する二年前の話です。
 
 「あなたの病気はすぐに治る」という医師の言葉を信じ、
 親にも内緒で、ここを訪れたのです。


 三か月の療養生活という約束のはずが、
 まさか六十年以上になろうとは。
 そしてこの間、家族との連絡を絶たれ
 筆舌に尽くしがたい差別や虐待を味わうことになろうとは。

 八十六歳のいまなお、その一つひとつの出来事が
 鮮明に思い出されます。

 ハンセン病を発病したのは女学校に入学した
 十三歳の時でした。
 詳しい説明は何もないまま、親戚の説得で学校をやめ、
 自宅療養に入りました。
 
 幸い親戚に医者がいて、当時ではなかなか手に入らない
 高価な漢方薬を私のために処方してくれました。

 とても苦い薬でした。
 
 泣きながら朝昼晩、盃一杯ずつ飲みました。
 しかし、そのためか顔や首、手足にできた赤い斑紋が
 一年、二年と経つうちに、自然と消えていったのです。

 家族や親戚は皆、私の病気を治そうと懸命でした。
 
 「神経が麻痺する病気だからこの子に荒い仕事はやらすな」
 
 と炊事、洗濯は祖母や母が引き受け、
 幼い弟や妹の子守りをしたり
 学校に送り迎えしたりするのが私の日課でした。
 
 おかげで症状の再発もなく、
 いつしか七年の歳月が過ぎていました。
 いま思うと幸せな期間でした。


 二十歳になった年、開園したばかりの
 沖縄愛楽園の園長が家に検診に来て
 
 
 「あなたの病気は初期だから、
  しばらく療養所にいたら治りますよ」
 
 と言いました。当時の沖縄には、家や職場を追われ、
 浮浪者となるハンセン病患者が数多くいました。
 
 新聞にあった浮浪者収容という言葉が頭に浮かび、
 
 
 「病気は治っています。行く必要はありません」
 
 
 と強くはねのけました。

 しばらくすると、今度は鹿児島の星塚敬愛園の園長から
 転地治療を勧める極秘の手紙が二通届きました。
 
 パンフレットを添えて

 「花嫁修業もできる素晴らしいところですよ。
  三か月もすれば帰れます」
  
 とありました。

 「二度もこんな手紙をもらうことは余程いいところなのだろう」

 と軽い気持ちで、誰にも相談せず船で園に来ました。
 これが悪夢のスタートだと知らずに。

 気づいた時は手遅れでした。
 消毒液の風呂に入るよう命令され、
 粗末な着物に着替えさせられました。
 
 帯の間に隠していたお金は没収され、
 十二畳半の部屋が連なる長屋に連れて行かれました。
 この一室で同年齢の女性八人と生活を共にするのです。


 翌日、事務所に呼び出された私は
 「一か月のお小遣いです」と二円五十銭を渡されました。
 見るとブリキの貨幣でした。
 
 続いて渡された書類に目を通しながら、
 目の前が真っ暗になりました。
 
 心得と称し
 「規則に反した者は監禁室に入る」
 「死亡したら解剖し火葬してもよい」
 などと書かれてあるではありませんか。
 
 何かの間違いに違いありません。
 園長の紹介による旨を伝え
 「私は死にに来たのではない」と激しく抵抗しました。

 職員の表情は一変し、
 「この小娘が、生意気なこと言うな」と
 目玉が飛び出すほど怒鳴りつけるのです。

 ガクガクと足が震えました。
 
 そして翌日から厳しい労働を言いつけられました。
 患者が次々に運び込まれて施設が手狭になり、
 新しい建物を建設するためです。
 
 戦況は日々激しさを増し
 「おまえたちのただ飯食いは許されない」
 というのが職員の言い分でした。

 治療に来たはずが、朝から夕方まで看護婦の補助、
 さらに夜は重病人の付き添いを遅くまでさせられました。
 
 茶碗一つ洗うことがなかった私の手は霜焼けになり、
 ついには指先が動かせなくなりました。


 昭和十六年、私は比較的症状の軽い入所者と園内結婚しました。

 新居は、四組の夫婦が押し込まれた十二畳半の一室。
 カーテンなど何の仕切りもありませんでした。
 一年も経たずに子どもができました。

 恐れていたことが現実になりました。
 ある日医局から呼び出され、堕胎を強いられたのです。
 
 台の上に乗せられ腹の中のものを
 全部引き出されるような痛みを感じました。
 
 子どもが足をバタバタさせている様子を見ました。
 これがわが子の姿を見た最後でした。
 
 看護婦は「あんたに似てかわいい子だよ」と言いながら、
 声の出ないうちにガーゼで口を押さえたのです。
 一緒に殺して、と思いました。
 
 しばらく気を失った後、
 目覚めた時に激しい喉の渇きを覚え
 「水を飲みたい。水をください」と言いました。
 
 返ってきた言葉は
 「勝手なことをしておいて、贅沢言うな。我慢しなさい」。
 この言葉を思い出すたびに体が震えます。
 この時も、これ以降も私の心を支えたのは神の存在でした。

 私は入園して間もなく、
 入所者の代表を務める中年男性との縁で
 『聖書』に出合いました。
 
 園のやり方に抵抗ばかりしていた
 強気の私を見るに見かねたのでしょう。
 
 「ここでは反抗していても何の得もない。
  それより神様を信じて人を許すことを覚えなさい」
  
 と言葉をかけてくれたのです。
 
 精神的な崖っぷちにいた私の心に、
 万人への普遍の愛を説いたキリストの言葉の
 一言一言が染み入りました。


「あなたは何を支えに、これまで生きていましたか」

 と聞かれることがあります。
 私はその一つに神の愛を挙げます。
 
 と同時に七年間必死に治療してくれた親や親戚の支え、
 お互いに励まし合った同部屋の仲間たちの愛情も
 忘れることはできません。


 平成八年、らい予防法は廃止になりました。
 しかし数々の苦しみは私の記憶から絶対に消えることはありません。
 いまでもわが子の夢を見ます。
 
 悲惨な歴史を繰り返さないためにも、
 私の体験を一人でも多く語り継ぐことが、
 務めだと思っています。
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