■2011年05月26日(木)18:08  そうなんですけど
※あなたの人間力アップに役立つ記事をお届けします
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     致知出版社の「人間力メルマガ」

       【2011/5/26】 致知出版社編集部 発行

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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』から
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。
   
        * *
   
   一家6人、無一文で京都に出てき、
   どん底の生活を味わうも、生活のために始めた
   書籍販売の営業で、全国トップに上り詰めた林薫氏。
   
   2003年4月号のバックナンバーより、
   林氏がどん底から掴んだ成功哲学をご紹介します。

   営業マンの方、必読の内容です。



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       「営業マンは幸せを運ぶ配達人」
       
       
          林薫(ハヤシ人材教育研究所所長)

       『致知』2003年4月号
            特集「人間力を養う」より


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私が長年歩んできた営業生活の中で特に注意し、
努力しなければならないと思うことが15項目あるので、
ご紹介させていただきます。



 1、教養を身につけ、人間性を養え


 2、旬を逃すな


 3、たえず、相手の幸せを考えよ


 4、自分の心をコントロールできるようになれ


 5、服装、身なりは清潔に


 6、自分が経営者で社長であると思え


 7、親しき仲にも礼儀ありでゆけ


 8、態度は低く、心は高く


 9、客を育てよ


 10、商品を学び、自信を持て


 11、目標と計画をしっかり立てよ


 12、逆境に負けるな


 13、男は度胸、女は愛嬌でゆけ


 14、テクニックを研究せよ


 15、人に負けることが、当たり前になるな



この15項目は営業マンにとってどれも大事な心掛けですが、
その中でも特にと言えば、やはり1の「人間性を養え」が
大切だと思います。

例えば、お客様にお断りを言われた時、営業マンは
その商品を断られたと思っていますが、
実は態度や人間性をキャッチして拒否している場合が
多いことを知っておかなければなりません。

逆にお客様が契約してくださるのは、
ある意味で営業マンに惚れてくださったのです。

私はこれまで多くのお客様にご契約をいただいてきましたが、
だからと言って自分が高い人間性を兼ね備え、
魅力的な人間だ、などと言うつもりはありません。

私は口下手で、頭がズバ抜けて切れるわけでもなく、
人目を引くほど容姿端麗なわけでもありません。

しかし私には


「営業マンは幸せを運ぶ配達人」


という強い信念がありました。

世の中には言葉巧みにお客様を騙し、
商品を売りつければそれでいいと思っている人もいますが、
私はそういう人に「営業マン」を名乗ってほしくはありません。

幸せを運ぶ配達人は無責任であってはならず、
自分の勧める商品を使っていただき
お客様に幸せになってもらいたいと心から願うものなのです。

そしてお客様が何かお困りのことがあれば
どんな相談にも乗り、力になる。
それが私の信条でした。

■2011年05月17日(火)12:28  東京大空襲で見た母子の愛
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   先日、人間力メルマガで紹介して
   大きな反響を呼んだ作家・西村滋さんの幼少期のお話。
   
   【ご覧になっていない方はこちらをクリック】
   http://ameblo.jp/chichi-ningen/day-20110510.html
   
   
   本日はその後、西村さんがどのような人生を歩まれたか、
   東京大空襲での実体験をご紹介します。


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      「東京大空襲で見た母子の愛」
       
       
         西村滋(作家)
        
        
       『致知』2011年6月号
         特集「新生」より


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 ともかく何か職を探そうと、昭和十七年、
 十七歳の時に単身上京しました。

 実は終戦近くになって自分も結核を患い、
 世田谷の療養所に入っていたんですが、
 当時は外科病院が人手不足のため、
 回復期にある病少年を手伝いに行かせていたんです。
 
 割合に元気だった僕は昭和二十年三月九日の夜、
 浅草にあるその病院へ行きました。

 ただ御徒町の駅に降りると、何だか嫌な感じがするんですね。
 予感というのかな。
 
 で、病院に着いて怪我を負った少年のベッドの傍に座った途端、
 警戒警報が出たんです。
 それからしばらく静かなだと思っていたら、
 いきなりガーンッ! と爆撃が始まった。

 外を見たら電線が垂れてるわ、家がゴーゴー燃えてるわで、
 えぇっ!? と思ってね。
 
 ここにはいられない、と怪我の子を連れて
 廊下へ出たらその直後、病室に爆弾が落っこったんですよ。
 もうちょっと遅かったら死んでましたね、本当に。


 とにかく外へ飛び出すと、両側の家が激しく燃え上がり、
 みるみる広がっていく。
 目の前に乳母車があったので、どうせ燃えるのならと頂戴して、
 その子を乗っけて一目散に駆けました。

 皆は隅田川の橋へ橋へと逃げる。
 
 僕は勝手が分からないから、とにかく他の人についていく。
 すると橋の手前は渡れない人でいっぱいで、どうにもならない。
 
 それでまた大通りへ戻ってきた時に、
 これは風上へ逃げたほうがいいと考えました。
 それを突破できれば火に追われることはない。
 
 でも大変ですよね。
 目に火の粉は入っちゃうし、
 そのうちに強い熱風がきて乳母車から手を取られてしまい、
 その子とは離れ離れになりました。

 とにかく向こうの建物までは、と考えたんですが、
 途中で僕も力尽きて倒れ込みました。
 
 五分刈の頭は火に炙られて脂が浮き出てくる。
 焼けた物が飛んできて着ていた服に火がつく。
 こんな所で焼き殺されるなら死んだほうがマシだ──。
 
 そう思って舌を噛みました。
 でも力が足りなくて、切れなかったんですね。

 そのまま失神しそうになった時、
 「こっちだ、こっちだ」という声がしてゴロゴロ転がっていくと、
 自分が天麩羅のネタになったようにシューッと音がして、
 衣服の火が消し止められたんです。
 
 電車の線路の枕木が爆弾で剥がれた所に、
 消火用の機器が置いてあって、誰かがぶちまけてくれた。
 それで奇跡的に助かったんですよ。


ただ、軍隊のトラックが無茶苦茶に走っていて
死体の上を踏み潰して走る。
こっちが生きてることを示すために必死に手を振って
「寝ちゃダメだ、寝ちゃダメだ」と
周りにいた皆で声をかけ合いました。

それでも、いつか気が緩んだんでしょうね。
気がついたら夜が白々と明けていました。

 焼け跡を素足で歩くのはまだ熱いぐらいでしたが、
 僕は放心状態になったまま足を動かしていました。
 何か、助かったという気がしない。
 あたりは地獄絵ですよね。
 
 皆死んでて、焼け死体。
 軍隊が来たんですが、遺体処理に困り、
 積み上げた死体の山にガソリンをぶっかけて燃やしている。
 誰が誰だか分かりゃしない。
 
 でも僕はそれを見ても何の感情も起きないくらい、
 ポカーンとしていました。


        * *


 そのうちにある場所で、人が集っているのを目にしました。

 見ると若いお母さんが死んでいるんですが、
 その路地の突き当たりが石塀で、
 どこにも進めない所へ入っちゃったんですね。
 
 前にも後ろにも行けなくなって、
 結局子供だけでもお母さんは守ろうとしたんじゃないでしょうか。

 素手で穴を掘ってね、
 その穴へ子供を埋めて、自分の体で蓋をして……。
 
 その子は死んでいます、もちろん。
 死んでいましたが、お母さんのおかげで
 非常にきれいな遺体でした。
 お母さんの背中は焼け焦げてもう真っ黒……。

 それを覗いて見た瞬間、僕は説明を聞かなくても
 事情がすぐに飲み込めました。
 その時に初めて人間に戻ったんじゃないですか。
 ウワーッ! て泣いたんですよ。
 
 他の人がびっくりして
 「あんたの知ってる人か」と聞くから
 「知らない人じゃ泣いたらいけないのか」と怒鳴って、
 ワアワアワアワア泣きじゃくりました。

 あの時、なぜ泣いたかといえば、
 自分の母親のことを思ったからです。
 
 どうせ助かる見込みはないのに、
 穴を掘って子供を埋め、自分の体で蓋をしてる。
 これがお母さんというものかと思ったから涙が出たんでしょう。

■2011年05月11日(水)11:37  “札付き”だった支店長の勇断
       「“札付き”だった支店長の勇断」
       
       
           佐々淳行(初代内閣安全保障室長)
        
        
       『致知』2011年6月号
         特集「新生」より
            http://www.chichi.co.jp/monthly/201106_pickup.html

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 僕が今度の震災で感じたことを一言で言ったら、
 日本国民のガバナビリティー(被統治能力)の高さでした。

 阪神・淡路大震災の時も、神戸市民は実に立派でした。
 略奪もないし、整然と行列をつくって
 配給物資を受け取っていた。
 八方から手が伸びて奪い合う場面はついぞなかったんです。

 しかし、東北の避難民の方は、それ以上に立派でしたね。
 もともと忍耐強い土地柄だし、とにかく市民のレベルが高い。
 日本人のガバナビリティーは
 世界に冠たるものがあると改めて確信しました。


それで一つ思い出したのは、阪神・淡路大震災の時、
日銀の神戸支店長に遠藤勝裕という傑物がいたんです。

ジェット機が落ちたかと思うくらいの
轟音と激震に遭遇した直後、
自分がこの大災害に際して何をすべきかを考え、

「そうだ。俺の役割は町に紙幣を出すことだ」

と気づくんですね。


 日銀の支店は設備の損傷はあったが、
 幸いにも大金庫が無事だった。
 遠藤さんはそれを開けちゃうんですよ。
 
 緊急時に普通は閉める大切な金庫を、逆に開けてしまう。
 そしてそこにあった札束を全部取り出し、
 紙幣の流通を止めなかったんです。
 
 本人は「兵庫県一日分の金額が入っていた」と言っています。
 だから何十億円でしょう。


 そして次は被災地の民間銀行が
 壊れていないかを点検するんです。
 そうしたら日銀のほかに一つだけ壊れていない銀行があった。
 
 すると三日後には、そこと日銀神戸支店内に、
 被災して休業中だった各銀行の支店の
 臨時窓口を開設するわけです。
 さらに兵庫県警本部に連絡を入れて警備を要請した。
 
 普通なら各支店に配置しなくてはいけない
 百〜二百人の警察官が二か所で済むわけだから、
 本部長も随分助かったと話していました。

 もっと凄いのは、震災当日のうちに
 金融特例措置という五か条の布告を
 独自の判断で出したんですよ。
 
 例えば通帳や判子がなくても身分証、免許証を
 提示したらお金が借りられる、
 半焼けの紙幣は普通の紙幣と交換する、といったもので、
 もちろんこんなことを日銀本店や大蔵省本省が
 すぐに承認するわけがありません。


 ところが、大蔵省の神戸財務事務所長というのがまた傑物でね。
 これを決裁するんです。そしてこのルールでどんどんお金を出す。


 こんな話もあります。
 
 遠藤さんが震災後、市内を視察すると、
 コインを持たない被災者が自動販売機を
 蹴っている様子を目にするんです。
 
 「そうか、物があってお金がないと暴動が起こるな」と。
 
 そこで銀行協会に申し入れて、
 百円玉九枚と十円玉十枚を入れた千円の袋を四千袋つくり、
 避難所に行って
 「銀行協会からの義援金でございます」と渡して歩くんです。

 
 その方は本当はクビだったんです。
 なにせ日銀のあらゆる掟を破ったわけだからね。
 僕は遠藤さんとは一面識もなかったんですが、
 解任だと聞いた時はカッときて日銀の役員に電話で談判しました。
 
 
 「遠藤さんを辞めさせると聞いたけれども、本当か」
 
 「いや、いま内部でそれが問題になっているところです」。
 
 
 聞いてみると、災害に遭った地域を救済するために
 過去に何度かこのような超法規行為をやっていた
 “札付き”の支店長だったらしい。

 日銀内部は
 「とんでもない日銀マンだ」
 「これこそ日銀の鑑」
 という二つの意見に分かれていて、僕はその日銀役員に
 
 「彼のような功労者をクビにするなんてとんでもない。
  本店に栄転させなさい」
  
 と強く言いました。
 それが聞き入れられたのか、
 遠藤さんはクビにならずに調査役になりましたよ。

■2011年05月10日(火)17:31  良い物を目指そう!
6月号の致知に、プルトニウム産出型ではないトリウム溶融塩原子炉の開発を携わって来た古川和男氏のインタビューが記事になっています。これは理想的なプランかと思いますが、大規模でなくても利用出来るので、プラントを作るのに『企業が金にならない』という事が潜んでいます。
下記に抜粋を紹介しますが、世の中は広く良い物も一杯ありながら実現して行かない歯がゆさを痛感します。


「トリウム溶融塩原子炉」というオルタナティブ

 2010年03月25日 | 日記

 プルサーマル計画だけでなく、現行の原発に代わる、新たな選択肢として、古川和夫博士の「トリウム溶融塩原子炉」をご紹介しながら、国益にかなう新たな選択肢となる国策を提示できればと思います。

以下に引用します文章は、パリで行われた第四世代原子力システム国際フォーラム(GIF)における古川氏の発言をまとめたものです。

「トリウムを利用する原発(溶融塩炉原発)は、原子力発電に液体核燃料を使うことにより過酷事故が原理的にありえない安全単純な原発」であり、「最も厄介なプルトニウムと縁が切れ」(ほとんど生成しない)、「ウラン濃縮は必要ない」原発です。

「固体燃料体がないから現状の軽水炉よりはるかに単純な構想(構造?)となり安く発電可能」で、燃料となる「トリウムはウランの数倍存在し独占不能で安価」、「単純な化学処理で燃料増殖リサイクルが可能になり、プルトニウムを含む超ウラン元素類が生産されないから、核廃棄物は大きく減らせる」とのことです。

さらに、「プルトニウムを含む核廃棄物の消滅処理に最適な炉型方式である」上に、「そもそも『トリウム利用』は強い放射能を伴い核兵器向きで無い」ので核兵器への転用が難しいとのことです。

 また氏は、「日米露が共同で基礎開発に取り組めば、基盤技術は整っているので実に僅かの資金と期間で実用化が開始できる。20年もすれば本格利用に入れる」とし、「現在の核エネルギー技術は今世紀前半に終息させ、プルトニウムのない世界を完成させ」、「核兵器の完全廃絶」と「核テロなどに乱されぬ平和世界構築」をビジョンとして述べられています。
* 「核不拡散の新たな枠組みと原子力ビジネスの流れ」への古川博士のコメントもご参照下さい。

氏の提唱されている「トリウム溶融塩原子炉」による核エネルギーシステムでは、現在の原発における多くの問題点、つまり余剰プルトニウム処理の問題と核兵器転用の可能性(核不拡散)、放射性廃棄物の低減と処理の問題が解消されるか大きく軽減されます。また廉価で原発を製造することができ、次世代の基幹産業としてのビジネスチャンスを創生することができ、日本の国益に充分かなっていると言えるでしょう。

原発というマントルの流れを止め得ないのであれば、少なくとも氏の提唱する「トリウム溶融塩原子炉」は、全ての原発を無くす前段階のセカンドベストとなる選択ではないかと思います。

しかしながら、現在「トリウム溶融塩原子炉」は実験炉に留っています。その最大の理由は、「トリウム溶融塩原子炉」では核兵器となるウランやプルトニウムを使わない、ほとんど生成しないということに尽きるかと思います。原爆が作れない原子炉は要らない、というのが当時の選択だったのだと思います。

さらに、原発産業に関わる企業にとっては、ウラン濃縮や核燃料を作るフロントエンド、使用済燃料や放射性廃棄物処理を行うバックエンドでの受注が見込めない「トリウム溶融塩原子炉」は、「うまみのない原発」だったのでしょう。
またプラント建設や電気機器メーカーにとっても、構造が簡単で小型化できる当原発は、儲けがあまりに少なかったのでしょう。

この政治・経済(軍事も含む)システムに乗っかっている以上、5大国を筆頭にした各国の為政者や企業はこのシステムのなかで生き残りをかけ、核抑止と他国への軍事的優位を確保するため、或いは平和目的という名目で原発を保有するという、当然といえば当然の選択を行ったのでしょうが、やはりどこかとても寒々とした、淋しい思いに駆られます。(感傷的過ぎるでしょうか・・・)

現行の原発と比べると、将来の子孫が担う放射性廃棄物という極めてやっかいな負担や、原発をつくるための財政的負担、また作業員の作業時の被爆や原発周辺の過酷事故による放射能汚染の危険性が極めて小さくなる、この「トリウム溶融塩原子炉」が、せめて核廃絶や原発廃絶の橋渡しとして、現行の原子力行政・原子力ビジネスにとって代わることはでいないものかと思案します。

日本の国益を真に考えるならば、次世代の選択肢として、この「トリウム溶融塩原子炉」による核エネルギーシステムを考えないというのは理にかなわないように思われます。少なくとも現行のプルサーマルをはじめとする原子力政策よりも、はるかに多くの課題への回答を持った、国益にかなう「国策」と言えると思うのです。

ただし、様々な利権構造が複雑に絡み合っているこの世界のシステムの中で、この「トリウム溶融塩原子炉」が、今後実用化への道を順調に進むことができるのかどうかは、私には分かりません。(今までも、実用化の道を何度か阻まれているように思います)

また、こうした「トリウム溶融塩原子炉」による核エネルギーシステムの利点が現実のものとなったとしても、私にとっての問題点が消え去るわけではなく、私がこれまで述べ続けてきたこの世界のマントルである、政治・経済(及び軍事)システムの流れが止まり、その問題点が解決されるわけではないのです。根本的な問題は、今も厳然とここにあります・・・

それでもなお、氏の研究と思いは、原発そのもの、この政治・経済(及び軍事)システムそのものに違和感のある私にとってさえ、非常に価値のある業績であり、今後の日本の国策となりうる可能性を持った選択肢だと感じました。

ウラン・プルトニウムによる現在の原発の現実を見据え、そのなかで、科学者として、できうる限りの努力を傾注され続けてきた博士の歩みに敬服するとともに、氏の願いである、プルトニウムのない、核兵器のない世界が実現することを、私も共に祈らせて頂きたいと思いました。

■2011年05月10日(火)17:18  しっかり生きよう
    致知出版社の「人間力メルマガ」

       【2011/5/10】 致知出版社編集部 発行
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   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』から
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。
   
        * *
  
   6歳で母と、9歳で父と死別し、
   孤児となり放浪生活を送っていた作家の西村滋さん。

   孤児院を転々としながら非行を繰り返していた
   西村さんが立ち直ったきっかけとは──。


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      「13歳で知った母の真実」
       
       
         西村滋(作家)
        
        
       『致知』2011年6月号
         特集「新生」より
             http://ameblo.jp/chichi-ningen/

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 僕は幼少期に両親を結核で亡くしているんですが、
 まず母が六歳の時に亡くなりました。
 
 物心のついた時から、なぜか僕を邪険にして邪険にして、
 嫌なお母さんだったんですよ。
 散々いじめ抜かれて、憎まざるを得ないような母親でした。


 これは後で知ったことですが、
 母は僕に菌をうつしちゃいけない、
 傍へ寄せつけちゃいけない、という思いでいたようです。
 
 本当は入院しなきゃいけない身なんですが、
 そうなれば面会にも来させられないだろう。
 
 そこで母は、どうせ自分は死ぬのだから、
 せめてこの家のどこかに置いてほしいと父に頼み込み、
 離れを建ててもらったそうです。

 僕はそこに母がいることを知っているものですから、
 喜んで会いに行く。するとありったけの罵声を浴びせられ、
 物を投げつけられる。
 
 本当に悲しい思いをして、
 だんだんと母を憎むようになりました。
 母としては非常に辛い思いをしたんだと思いますよ。


 それと、家には家政婦がいましてね。
 僕が幼稚園から帰ってくると、
 なぜか裏庭に連れて行かれて歌を歌わされるんです。
 
 「きょうはどんな歌を習ってきたの?」と聞かれ、
 いくつか歌っていると「もっと大きな声で歌いなさい」
 なんてうるさく言うから嫌になったんですがね。
 
 これも母が僕の歌を聞きながら、成長していく様子を
 毎日楽しみにしていたのだと後になって知りました。


 僕はそんなことを知る由もありませんから、
 母と死に別れた時もちっとも悲しくないわけね。

 でも母はわざとそうしていた。
 病気をうつさないためだけじゃない。

 幼い子が母親に死なれて泣くのは、
 優しく愛された記憶があるからだ。
 憎らしい母なら死んでも悲しまないだろう。
 
 また、父も若かったため、新しい母親が来るはずだと
 考えたんでしょうね。
 継母に愛されるためには、実の母親のことなど
 憎ませておいたほうがいい、と。
 
 それを聞かされた時は非常にびっくりしましたね。


 私がそれを知ったのは、
 孤児院を転々としながら非行を繰り返し、
 愛知の少年院に入っていた十三歳の時でした。
 
 ある時、家政婦だったおばさんが、
 僕がグレたという噂を聞いて駆けつけてくれたんです。
 
 母からは二十歳になるまではと口止めされていたそうですが、
 そのおばさんも胃がんを患い、
 生きているうちに本当のことを伝えておきたいと、
 この話をしてくれたんですね。

 僕はこの十三歳の時にようやく立ち直った、と
 言っていいかな。あぁ、俺は母に愛されていた子なんだ、
 そういう形で愛されていたんだということが分かって、
 とめどなく涙が溢れてきました。

■2011年05月06日(金)18:44  顔はすべてを語る
■「致知随想」ベストセレクション
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          「顔はすべてを語る」
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


豊田泰光(野球評論家)

             『致知』2004年6月号「致知随想」
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです


…………………………………………………………………………………………………

 いまでも忘れられない試合がある。

 昭和二十八年、私は西鉄ライオンズに入団。
 すぐにショートのポジションを獲得して
 公式戦に出場することになった。
 
 四月十二日、私にとってはちょうど十八歳と二か月の
 節目の日に行われたのが、
 佐賀県の旧杵島炭坑野球場での東急フライヤーズとの試合だった。

 両エースの好投で一対一の同点のまま迎えた九回表、
 東急の攻撃の時に悪夢は起こった。

 ツーアウトでランナーは二、三塁。
 打者の打った球は私の守るショートに転がってきた。
 なんでもないゴロである。
 
 ところが捕球の瞬間、ホームに向かって走るランナーの姿が
 チラッと目に入り、途端に体が硬くなった。
 
 気がつくと、ボールは転々と私の後ろを転がっている。
 大事な場面で私はトンネルをやらかし、
 相手の勝ち越しを許してしまったのである。

 その日は打撃でもまったくいいところがなく、
 その裏に回ってきた打順で三振。
 最後のバッターになってしまった。


「バカヤローッ!」
「帰れっ!」

 西鉄ファンで埋め尽くされたグラウンドは、
 怒号の渦となり、私はやりきれない思いで球場を後にした。
 
 宿舎に向かうバスに乗る時、チームリーダーの先輩に謝ると、
 「謝って済むならお巡りは要らん!」と
 思いっきり蹴飛ばされ、私はバスの外へ転がり落ちた。
 死にたい気分だった。
 
 バスの座席に戻っても、出てくるのはため息ばかり。
 あぁ俺は最低だ。もう野球なんかやめて国へ帰り、
 土建屋の親父の手伝いでもしようか。
 外は暗く、車窓に映る自分は何とも情けない顔をしていた。

 しかし、このまま終わりたくはなかった。
 なんとかこの借りを返したい。
 
 自分を使ってくれた三原監督、好投を続けていた
 エースの川崎さんに恩返しをするためにも。
 
 なぜあんなエラーが起きたのか。
 大事な場面で動きが止まらない方法はないか。
 一年間、心に残ったトラウマと闘いながら私は考え続けた。
 
 そしてついに、「動いて捕って、動いて投げる」
 独自のスタイルをあみ出したのである。
 守備に自信を得た私は、打撃の勝負強さにも磨きがかかり、
 攻守にわたる活躍で西鉄の黄金時代を支えた。


 この体験から得たことは、単に野球の技術に
 関することばかりではなかった。

 私を蹴飛ばした時の先輩の顔。
 極悪人のように醜くゆがんだその顔は、
 いまだに忘れることができない。
 
 また、バスの車窓に映った自分の顔は、
 何とも言えず情けなかった。
 顔は、その人の心をつぶさに表していることに
 私は気づいたのである。

 バッターボックスに立って相手ピッチャーの顔を見る。
 緊張してこわばっていれば必ず甘い球が来るから、
 私は逃さずはじき返した。
 
 逆に、キャッチャーのサインを落ち着いて
 のぞき込んでいる時には、結構いい球が来る。
 
 そういう球は簡単には打てないから、
 ファールで粘ってチャンスを待った。
 意識して見れば、何気ない相手の表情から
 いろんなことが分かってくる。
 
 チャンスに強いと言われた私のバッティングも、
 そのことに気づいていたことが大きい。
 顔というのはバカにならないのである。

 しかし、多くの人は自分の顔について
 あまりにも無知である。
 髭剃りで毎日鏡をのぞき込んでいても、
 肝心の自分の顔をちゃんと見ていない。
 
 特に責任ある立場に立つ人には、
 もっと自分の顔に注意を払っていただきたいものだ。


 先日、テレビで某有名企業のトップが
 しゃべっているのを見たが、実に冷たい目をしていた。
 あんな目をして心優しい人に、
 私はこれまでお目にかかったことがない。
 
 あるいは国会中継で放映される野党の面々。
 与党に対してあれだけ鋭い質問を突きつけられるのだから、
 きっと頭はいいのだろう。
 
 ところがいかんせん顔がよくない。
 何が何でも自説を押し通そうと、
 殴らんばかりの険悪な顔をしている。
 
 あれでは、いくら立派なことを言っても
 国民の支持は得られない。
 
 顔で勝負できる人物が出てくるまで、
 当分の間政権交代は難しいだろう、などと思ってしまう。

 私は、若い頃からトップクラスの財界人や文化人と
 交流する機会に恵まれてきたが、
 そういう社会的地位の高い人に怖い顔で見つめられると、
 ビビッて目のやり場に困ったものだ。


 やはり人間、一番いいのは笑顔である。

 自分の生き方を貫いてきた人は、
 ニコッと笑っただけで相手の心をつかむことができる。
 
 人生の辛酸を嘗め尽くしてきたお年寄りが、
 時に見せる少年のような笑顔は、
 接する者を何ともいえない嬉しい気持ちにさせる。
 
 どんな組織でも、上の人間から笑顔で明るく
 「おはよう」と声を掛けている所は
 うまくいっているはずである。

 顔というのは、年とともに変わっていく。
 若い頃の私は、いま考えると恥ずかしくなるくらい
 生意気な顔をしていた。
 
 野球選手として脂の乗っていた頃は、
 目つきが鋭いといって怖がられた。
 
 現役を退いてからは人間的な幅も広がり、
 それが多少なりとも表情に反映されてきているように思っている。

 顔にはその人の生きざまが刻み込まれ、
 年とともに独自の味わいを醸し出してくるものだ。
 顔はその人の人生をすべて表していると言っても
 過言ではないだろう。
 
 いい笑顔が滲み出るような
 素晴らしい人生を歩んでいきたいものである。

■2011年05月01日(日)12:34  凄まじい
          「古刀に挑む」
           ~~~~~~~~~~~


天田昭次(人間国宝 <刀剣作家>)

             『致知』2011年5月号「致知随想」
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです


…………………………………………………………………………………………………

 刀と私との出合いは、戦前にまで遡る。
 父は田舎の鍛冶屋でありながら独学で作刀を始め、
 わずか二、三年のうちに日本刀展覧会で
 文部大臣賞を取ってしまった。
 
 ところが私が十二歳の時、父は三十八歳の若さで亡くなり、
 母は「おまえは鍛冶屋にしたくない」と漏らしていた。

 しかし、これも運命というものだろう。
 後に私の師匠となる刀剣作家の栗原彦三郎さんが
 父の墓参に来られ、私の姿を見られたのである。
 
 「おまえ、いくつだ? 小学校を終わったらすぐ俺ン所に来い」。
 
 母は上級学校まで行かせたがったが、
 師匠は私を夜学に通わせる約束をし、
 上京の手筈を整えてくれた。

 しかし実際に作刀を教わるようになったのは何年も後のこと。
 私は行ったその日から、師匠の按摩ばかりをさせられた。
 
 やっと仕事場に入れてもらえるようになったと思った矢先には、
 太平洋戦争が勃発。敗戦で辺りは焼け野原となった上、
 占領軍によって武器製造は禁止され、我々の鍛錬所も解散となった。

 日本刀を美術品として製作するのが許可されたのは、
 昭和二十九年のことである。
 
 その間十年近く、私は故郷の新潟で農具や刃物を作りながら、
 なんとか糊口を凌いだ。
 
 刀作りを廃業して会社勤めを始めた者もいたが、
 私は火の神様、鍛冶屋の神様から離れることはしなかった。
 翌年、第一回の刀のコンクールが開かれ、
 私の出した作品が優秀賞に選ばれた。

 
 昭和三十二、三十三年も同賞を取り、
 いささか有頂天になってもいた。
 
 しかしある時、ふとこんな疑問が沸いたのである。
 自分の刀は、現代のレベルではたまたま優秀賞を取れた。
 
 しかし鎌倉や南北朝時代の刀と比べると、
 まるで問題にならないじゃないか。
 このままの状態でいたのでは、
 自分は大した価値のある人間にはなれないだろう、と。

 そこから、古い時代の刀を模索し、
 現代に再現するという途方もない闘いが始まった。

 ところが、古刀を毎日毎日見ていると、
 あまりにも謎が多いことに思い至る。
 
 現存する千年も前の刀が、現在になぜ作れないのか。
 便利な道具など何ひとつなかった時代の刀に、
 我々はなぜ遙か及ばないのか──。

 そうした謎を解くために、まず取り組んだのが、
 自分自身で鉄を作ってみることだった。


 だが、「鉄を制する者は国を制する」と
 いわれた時代もあったように、
 自家製鉄というものは生易しい世界ではない。

 古い文献を頼りにレンガで小さな炉をつくり、
 そこに木炭と砂鉄を交互に入れて、ふいご(送風機)
で吹く。
 何日も寝ずに過酷な作業を繰り返さねばならず、
 その無理が祟って肋膜炎から結核を患った。
 
 しかしそれでもなお止めずに続けているうち、
 とうとう十年間の闘病生活を送る羽目になってしまったのである。

 もちろん、私の闘いはそこで終わったわけではない。
 四十二歳でカムバックするや否や、居を移して作刀を再開。
 
 「名刀はよい地鉄から生まれる」という信念のもと、
 青森から種子島まで砂鉄の蒐集に明け暮れる日々だった。

 鉄を真っ赤に焼いて入れるその水は、
 水道の蛇口を捻ればいくらでも出てくる。
 しかし水道水ではどうも調子がよくない。
 そこで昔の刀匠がしていたように、
 大寒の水を山中まで汲み出しに行く。
 
 その水を桶に置いておけば、一年以上置いておいても腐らない。
 そんなふうに、とにかくよかれと思うことを
 一つひとつ虱潰しにやっていった。

 やがてこの自家製鉄によって作られた刀は、
 刀匠界のグランプリとされる「正宗賞」にも三度輝いたが、
 これも古刀と比べればやはり問題にはならない。
 一体、何が違うのか。
 
 例えば日本の刀は、砥石を十数種類も用い、
 鎬の部分の光、刃の光、中間点はまた別の光と、
 細い鉄の中で「光」をいくつも区分している。
 
 外国の刀には見られない特徴である。
 そのことは、命のぎりぎりのやりとりのところで
 日本刀が存在したことと、決して無関係ではないだろう。
 死に装束的な意味合いも、
 あるいは込められていたのかもしれない。

 昔は刀匠も滝に打たれたり、水垢離をしたと聞くが、
 戦の中で現実に命のやりとりをする道具を作る、
 
 それゆえに刀匠と刀を持つ者との間には一体感があった。
 その切迫感こそが、本物の美を
 醸し出していったとも言えるかもしれない。

 作刀を始めて、昨年でちょうど七十年。
 
 その間、背中のほうからは「悔しかったらやってみろ」
 という声が絶えず聞こえていた。

 技術の世界では、あいつがやって俺ができないことはない、
 という気概と自負を持つことが、
 その力をさらに磨き高めていく。
 
 ならば、昔の刀匠のしたことが、いまできないわけがない。
 その製作者の心意気こそが、ものづくりにおいては肝心要である。

 己の未熟さを省み、年を追うごとに苦しみは
 一層増すばかりだが、ここで負けてなるものかと、
 さらに踏み込んで努力を続けていきたい。

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