2012年08月22日(水)16:11 
■■ Japan On the Globe(443)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

人物探訪: 稲盛和夫 〜 「世のため人のため」の経営哲学

 従業員の物心両面の幸福を追求するのが、
経営者の役割。
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■1.「そのような考え方では米国では成功できない」■

 1989(平成元)年、京セラはアメリカの電子部品メーカー
AVX社を買収した。世界8カ国に18の生産拠点と1万人近く
の従業員を持つ大企業である。通常、日本企業が外国企業を買
収すると、本社から経営陣を送り込み、管理しようとする。そ
れに対して、京セラの創業者・稲盛和夫はこう考えた。

 しかし、私は企業合併は結婚のようなものであり、心か
ら信頼できる関係を築き上げることがもっとも大事だと考
えていた。だから、買収が成立しても、経営陣はそのまま
にし、京セラの考え方をできるだけ早く先方に伝え、共有
できるようになりたいと思った。[1,p5]

 そのために、稲盛はAVX社の幹部との勉強会を持って、自
分の経営哲学を語った。「私心があってはならない」「働く意
義や目的がもっとも重要だ」と語る稲盛の言葉に、幹部社員は
否定的だった。「そのような考え方では日本では成功できても
米国ではできない」「それでは我々はついていけない」と言う。

 しかし、人間の本質は洋の東西を問わず同じであると信ずる
稲盛は、数日間の勉強会を再三持って、彼らの疑問に一つ一つ
丁寧に答えていった。その結果、彼らは「あなたの経営に関す
る考え方はよく分かった。その方が確かに素晴らしいので、こ
れからはあなたの経営哲学をベースとしてAVX社を経営して
いきたい」と言った。

 こういう経営陣に率いられた同社は、買収後の6年間で売上
は3倍、利益は6倍に成長し、バブル期に行われた多くの海外
企業買収の例外的な成功例と言われた。

■2.「一致団結して、世のため人のために」■

 稲盛が京セラを創業したのは、昭和34(1959)年、27歳の
ことだった。当時、京都の小さな碍子会社で、セラミック真空
管の開発に悪戦苦闘していたのだが、新任の技術部長に「君の
能力では無理だな。ほかの者にやらせるから手をひけ」と言わ
れた。

 稲盛は、頭の血が逆流して、「無理というのであれば、会社
を辞めます」と辞表を叩きつけた。稲盛が退社すると聞いた部
下たちが寮に押しかけてきた。一緒に粉まみれになって製品開
発に取り組み、夜は飲みながら「素晴らしいセラミック部品を
世に送り出そう」と気炎をあげていた仲間たちである。「こう
なったら自分で会社をやってみるか」と稲盛が言うと、部下た
ちは口々に「自分も辞めてついていく」と応えた。

 稲盛は、自分に人生を託してついてきてくれる人たちの気持
ちに感激して、誓いの血判をしようと呼びかけた。血の気の多
い一同はすぐに賛成して、次の誓詞を書き上げ、血判をした。

 一致団結して、世のため人のためになることを成し遂げ
たいと、ここに同志が集まり血判する。

■3.社員たちの「要求」■

 こうして社員総勢28名の京都セラミックが出発した。幸い、
松下電子工業からテレビ用磁器部品の大量注文が入り、限られ
た人員と設備で、来る日も来る日も徹夜の連続でフラフラにな
りながら納入した。一年間、わき目もふらずに走り続け、最初
の年から黒字が出た。翌年は売上、利益とも倍増の勢いだった。

 創業3年目の昭和36(1961)年4月末、前年に入った高卒社
員11名が突然、稲盛の席に来て「要求書」を突き出した。定
期昇給とボーナスなど将来の保証をして欲しい、との内容で、
「これを認めてくれなければ、みんな辞めます」と思い詰めて
いる。

 みな深夜残業を一生懸命こなしてくれていた連中だ。ここま
で言うのは、よほどのことだろう、と稲盛は彼らを自宅にに連
れて帰り、ひざを付き合わせて語り合った。

 来年の賃上げは何パーセントと言うのは簡単だ。でも実
現できなかったらウソをつくことになる。いいかげんな事
はいいたくない。

 そう語る稲盛に、やがて一人ずつうなずいてくれたが、最後
の一人は「男の意地だ」と聞かない。交渉は3日に及び、最後
に「もし、お前を裏切ったら、おれを刺し殺してもいい」と迫
ると、ついに彼は稲盛の手を取って泣き出した。

■4.会社を経営するということの重荷■

 交渉が終わった後、稲盛は重苦しい気分になった。こんなさ
さやかな会社でも、若い社員たちは一生を託そうとしている。
自分の技術を世に問おうと会社を始めたが、こんな重荷を背負
うことが会社を経営するということなのか。とんでもない事を
始めてしまった。

 数週間も悩んだ末、稲盛はふっきるようにこう思った。

 もし、自分の技術者としてのロマンを追うためだけに経
営を進めれば、たとえ成功しても従業員を犠牲にして花を
咲かせることになる。だが、会社には、もっと大切な目的
があるはずだ。会社経営の最もベーシックな目的は、将来
にわたって従業員やその家族の生活を守り、みんなの幸せ
を目指していくことでなければならない。

 何か胸のつかえがスーッととれる思いがした。京都セラミッ
クは、稲盛の個人的な理想実現を目指した会社から、全従業員
の物心両面の幸福を追求する会社に生まれ変わった。

 しかし、それでもまだ足りない気がした。自分の人生は従業
員の面倒をみるだけで終わってよいのだろうか。自分の一生を
かけて、社会の一員として果たすべき崇高な使命があるはずだ。
そこで生涯をかけて追い求める理念として「人類、社会の進歩
発展に貢献すること」と付け加えた。

■5.「神に祈ったか」■

 昭和41(1966)年4月、IBMから集積回路用基板25百万
個の注文が来た。IBMが社運を賭けて開発している大型汎用
コンピュータ「システム/360」の心臓部に使われる部品だ。
技術力さえあれば、名もない小企業にも発注するのが、アメリ
カの一流企業のやり方である。

 しかし、その難しさは、京セラの技術をもってしても、果た
して対応できるか、こころもとないレベルだった。仕様書にし
ても、本1冊くらいの厚さがあり、寸法精度、表面の粗さ、比
重、吸水率など、従来よりも一桁厳しい仕様が並んでいる。

 京セラの技術を世界トップに引き上げる絶好のチャンス、と
稲盛の闘争心に火がついた。工場の寮に住み込んで、原料の調
合、成形から焼成まで、全工程の陣頭指揮をとった。

 3ヶ月、4ヶ月と時間は容赦なく過ぎていき、失敗した試作
品の山ばかり高くなっていく。ある日、深夜まで働いている社
員たちを激励しようと、夜中の2時頃に工場を回っていると、
プレスの担当者が電気炉の前で肩を震わして泣いている。炉内
の温度が均一にならず、何度やっても寸法に微妙な差が出てし
まう。その日も、今度こそという思いで炉を開けて、製品を取
り出してみたのだが、やはり寸法がずれていたので、泣き出し
てしまったのだ。

 稲盛は「焼成する時に、どうかうまく焼成できますようにと
神に祈ったか」と聞いた。神に祈るしかないほど、最後の最後
まで努力を傾けたか、と言いたかったのだ。「神に祈ったか、
神に祈ったか」と、何度も繰り返した彼は、「わかりました。
もう一度一からやってみます」 やがて、彼はこの難題を解決
した。

■6.「成功のための方程式」■

 こんな苦労を積み重ねて、ついに7ヶ月後に、IBMから合
格通知が来た。しかし、本番はこれからだ。25百万個という
膨大な量を納期までに納めなければならない。24時間三交代
で月産百万個を目標にフル操業に入った。ふたたび、稲盛が現
場の陣頭指揮をとった。

 ある日、大雪が降って、交通機関がストップした。各方面に
迎えのバスを出したが、全面操業にはほど遠かった。昼近くパ
ートの女性が雪まみれの姿で現れ、「こんなに遅れて申しわけ
ありません」というなり、プレス機に向かった。2時間半も歩
いて、工場にたどり着いたという。

 2年余り、全社員一丸となって生産に取り組み、ついに期限
までに25百万個を完納する事ができた。京セラの製品が、
IBMから高い評価を得たという噂は、たちまち国内の電気・
電子メーカーを駆けめぐった。

 最後の出荷トラックが出発するのを見送りながら、稲盛は
なんとしてもやり遂げるという強烈な願望を持ち続けることの
大切さをしみじみ味わった。こうした経験から、稲盛は次の
「成功のための方程式」を提唱している。

人生の結果 = 考え方 × 熱意 × 能力

 プレスの担当者やパートの女性の「能力」は平凡でも、「世
のため人のため」という正しい「考え」を持ち、それを並はず
れた「熱意」で取り組んでいけば、立派な結果を出せるのであ
る。そして、従業員にそれだけの「熱意」を吹き込んだのが、
稲盛の経営者としての情熱であった。

■7.運命共同体■

「月商10億円を達成してハワイに行こう」と稲盛がブチ上げ
たのは、昭和47(1972)年のことだった。前年の月商が5、6
億円で、一挙倍増の目標を立てたのである。

 まだ一般の人間には海外旅行は手が届かなかった時代だった。
稲盛は10年前にアメリカに出張した時の、震えるようなとき
めきが忘れられなかった。あの感動を、苦労をともにしてきた
すべての従業員に味あわせてあげたい、という気持ちだった。

「2等賞はないのか」という声が出て、「それなら9億円で香
港」と決めた。社内はハワイ、香港の話題で持ちきりになった。
結果は9億8千万円。翌48年1月、1300人の社員がチャ
ーター便で次々と香港に向かった。掃除のおばさんから社長ま
で、全員参加で2泊3日の香港旅行を楽しんだ。

 翌々年、オイルショックが直撃。受注が激減し、半分の人が
余った。しかし、創業以来、全社一体となって苦楽をともにし
てきた運命共同体である。稲盛は、雇用は死守する、と宣言し
た。

 それでも創業以来の苦境に「賃上げを一年間凍結して欲しい」
と組合に申し入れた。組合は満場一致でその受け入れを決めた
が、上部団体のゼンセン同盟が「凍結は困る。統一要求の29
%の賃上げを会社につきつけろ」と言ってきた。

 組合内で激しい議論の後、各企業それぞれの労使関係に配慮
しない一方的な指示には従えないと、ゼンセン同盟脱退を決議。
以後、独立独歩の道を歩むこととなった。この時に、制定され
た「京都セラミック労働組合憲章」は、こう謳いあげている。

 組合の存在は人間集団の永久の幸福づくりにあり、労使
は共に運命を切り開き、同じ考えのもとに喜びも悲しみも
分かちあう厳しい労使同軸の関係にある。労使はこの重大
な責任をいわば二分するものである。

■8.「善の循環」■

 平成10(1998)年夏、コピー機メーカー・三田工業の社長・
三田順啓氏が、突然、稲盛に会社の救済を頼んできた。稲盛の
経営哲学を知り、京セラなら従業員を幸せにしてくれると思っ
たそうだ。三田氏の社員を思う純粋な心根に打たれ、稲盛は支
援を快諾した。

 京セラの支援を受けた新生「京セラミタ」の社長・関浩二氏
は、京セラグループの国際経営会議で次のような挨拶をした。

 私は今、京セラミタの社長をしているのですが、そのこ
とに運命のようなものを感じています。私は、22年前に
稲盛名誉会長が救ってくださったサイバネット工業の出身
です。当時、サイバネット工業は倒産寸前の会社であり、
中堅幹部であった私は、明日の生活を心配していました。
そんな時、稲盛名誉会長が手を差し伸べて下さり、その時
の喜びと感謝の気持ちは、一生忘れません。

 ところが、今回は私が京セラ幹部として、三田工業を救
う番になりました。京セラミタの社員も、昔の私と同様に
京セラの支援を心から喜び、会社再建のため一生懸命努力
しています。そのため業績もどんどんよくなってきていま
す。私も恩返しのつもりで、社員と一緒に精一杯頑張りた
いと思います。

 涙ぐみながらこう語る関社長の言葉に、「善の循環」とはこ
ういうものかもしれない、と稲盛は思った。

■9.経営者の望みうる最高の代償■

 京セラの事業の成功から、稲盛は相当の資産を得たが、それ
は自分のものではなく、社会から預かったものだと思うように
なった。そして「預かりもの」である資産を「世のため人のた
め」に使って、恩返しをしようと考えた。そのために640億
円もの資産を提供して創設したのが、先端技術や基礎科学、表
現芸術などの分野で、人類の文明と精神的深化のために尽くし
た人々を顕彰する「京都賞」であった。

 経営者が苦労して得た報酬すら社会からの預かりものだとす
れば、一体、何が苦労の代償なのだろう。稲盛はこう考えてい
る。

 おわかりでしょうが、このように企業の経営者というの
は、たいへんな重責を負っています。一瞬たりとも気を休
めることができず、努力を怠ることもできません。考えれ
ば考えるほど、経営者であることはそのストレスや責任に
見合うほどの価値がないと思うかもしれません。それほど
の責任に対する代償を、経営者は得られるのでしょうか。
私は得られると思います。

 経営者の献身があるからこそ、多くの社員が現在や将来
に希望をつないで生活していけるのです。彼らは経営者を
信頼し、尊敬しているはずです。

 金銭では量れないこの社員のよろこびや感謝こそ、経営
者の望みうる最高の代償なのです。
(文責:伊勢雅臣)

■2012年08月19日(日)10:10  教育への取り組み
◆致知出版社の「人間力メルマガ」-----2012年8月19日 ◆




┌───真のエリートを育てる────────────────────┐


     「サムライDNAに火をつける」


        佐藤修一(海陽学園ハウスマスター統括)

                『致知』2012年2月号
                      致知随想より

└─────────────────────────────────┘


午前6時30分、毎朝全校生徒の点呼から
海陽学園の1日が始まります。

その後、中高生合わせて約600名が一堂に食堂に会し、
「いただきます」と唱和して朝食を食べ始める姿は、
まさに壮観です。

ここ海陽学園は未来の日本を担うリーダーを育成すべく、
トヨタ自動車やJR東海、中部電力などの企業が出資して
つくった中高一貫の全寮制男子校です。

単なる学力エリートではなく、
真に国を代表するリーダーとなるために、
「人間力が高まれば基礎学力も高まる」という理念の下、
全寮制の中で規律や礼儀を学び、全人格を磨いていきます。

海陽学園では寮を「ハウス」と呼び、
中学6つ、高校6つ、計12のハウスがあります。

それぞれ管轄責任者として「ハウスマスター」を
一人配置していますが、私は2年前から中学生のハウスを
一戸管轄しながら、ハウスマスター全体を統括する立場をいただき、
生徒たちと生活をともにしています。

教育界とはまったく無縁の世界で生きてきた私に
声をかけてくださったのは、JR東海の葛西敬之会長でした。

私は家が貧しかったこともあって、
中学卒業と同時に少年自衛隊入隊。
そこから防衛大学校へ進み、半生を国防のために捧げました。

そして2年前、第二師団長を最後に陸将として退官した時、
スカウトのお話をいただきました。

自衛官は規律を重んじ、常に国家のことを第一に考えるため、
そういう姿勢を生徒たちに感じ取ってほしいという
意向だったのだと思います。

私自身、この先も同じように国のために
尽くせる仕事をしたいと考えていました。

日本を担う人材を育てることこそ、
その思いに適うものと信じてお引き受けすることにしたのです。


ところが、やはり当初は勝手の違いに戸惑いました。
自衛隊は階級社会であり、責任と権限を与えられ、
命令一下で部隊を動かすことができますが、
ここでは相手は中高生。指示だけでは言うことを聞きません。

そして青年期特有の大変なエネルギーに満ちています。
どうやって彼らを感化善導していったらいいのか  。

葛藤の末、思い至ったのは「教育とは自己改革」
ということです。

生徒たちは私たち大人の言葉ではなく、姿を見ています。
結局は己を磨き、高めていく以外、生徒に
勇気・感動・希望を与える道はないのだと思うようになりました。

まさに格物致知(かくぶつちち)、
体当たりで生徒と向き合う私を支えてくれるのが、
フロアマスターたちの存在です。

各ハウスにフロアマスターが3人配置されていますが、
彼らは海陽学園の人間ではありません。
1年間という期限付きで日本の一流企業から
派遣されてくる20代の独身の青年たちです。

彼らもまた寮で生徒と寝食をともにしながら、
生徒たちの毎日の日誌に目を通し、
アドバイスをしたり相談に乗ったりしながら、
生徒たちの微妙な変化に目を配ってもらっています。

毎週月、水、金にはチューター(教師)とハウスマスター、
フロアマスターで打ち合わせを持ち、
勉強の進捗状況や寮内での変化など
生徒一人ひとりの情報を共有し、
24時間体制でその成長を見守っていきます。

小学校を卒業してきたばかりの一年生にとって、
親元を離れ、規律の中で先輩とともに暮らすことは
大変な環境の変化です。

学園内ではテレビゲームはもちろん、
携帯電話の所持も禁止していますから、
家族や地元の友人との連絡も容易には取れません。

また、1学年百十数名程度の小さな学校ですから、
自分の成績の順番なども自然と分かってくる。
そういう寂しさ、悔しさ、葛藤と独りで対峙しなければなりません。

しかし、そういった一種の逆境の下でこそ、
物質に恵まれ飽食の時代に育った彼らの
眠った遺伝子を呼び起こすのではないかと感じています。

飛行機が逆風を受け、翼に当たる風を利用して
大空に高く飛び上がるように、
人間もある時期厳しい環境に身を置くことで
志や夢、誇り、感謝といった、
自分の中にある本来のエネルギーにスイッチが入り、
そこに向けて一直線に突き進んでいくことができると思います。

そして、一度火がついたら、
さすがサムライのDNAを持つ素直な少年たちです。

こちらが「これ以上やったら体を壊すからやめなさい」
と言うまで勉強に、学校行事に打ち込んでいきます。

中学生は夜10時まで、朝は五時から自主学習を認めていますが、
たとえ1年生であっても自ら机に向かい、
黙々と勉強をしているのです。

また、少し勉強が遅れた生徒がいたら、
仲間内で得意科目を懸命に教え合う姿もあちこちで見受けられます。

その他、スポーツフェスタ(体育祭)等は
「ハウス」対抗で行いますから早朝や消灯の時間まで
皆で一所懸命練習する姿、部活動に打ち込む姿などを見ていると、
日ごとに少年から強く逞しいジェントルマンへと
成長していっているように感じます。

2012年の3月、海陽学園第1期生が卒業し、
大学入試結果などある一定の評価が下されると思います。

しかし、私たちの本来の目的は、
世界に冠たる基礎学力とともに人間力を伴った
次代のリーダーを輩出すること。

卒業生が自分の子供や孫も入学させたいと
思うような伝統ある学園になること。
遙か遠くにある目標を忘れず、
目の前の生徒たちを育んでいきたいと思います。

そして、海陽学園に続き、日本人としての矜持を
育むような学校がこの日本に増えていってほしいと願っています。

2012年08月18日(土)08:49 
┌───今日の注目の人───────────────────────┐



        歴史教育で生徒たちを変えていった
           野田将晴氏の名言


                『致知』2012年8月号
                 特集「知命と立命」より

└─────────────────────────────────┘


●日本人としての誇りを取り戻すことさえできたら、
人間としての誇りも自分に対する自信も取り戻せる。

 そこから夢や希望が湧いてくる。
 人を愛することもできるようになる。
 この7年間で私はそれを確信しました。



●教育は国家百年の大計であるといわれます。
 若者の姿を見れば日本の将来が見えてくるという意味で、
 私は校長に就任して極めて深刻な危機感を
 持たざるを得ませんでした。

 私が感じた現代高校生のイメージは「幼い」の一語でしたね。
 いい替えれば極端に自己中心的なんです。
 これこそまさに戦後の人権教育のツケだという思いを強くしました。
 


●私は教育に携わってまだ8年目ですが、
 いろいろな世界が広がってきました。
 その中で一つ確信を得たのは、
 教育の本質とは祖国の尊い歴史と文化を
 次世代に語り継ぐ営みだということでした。

 生徒と教師が祖国への誇りを取り戻せば、
 いまマスコミを騒がせる問題の多くは
 解決できるのではないでしょうか。



●教育者は、先ず自らを常に鍛錬する姿勢が求められるし、
 その姿勢があって始めて生徒に対して指導する資格がある。
 生徒に志を持てと指導する以上、
 教師自らが高い志を持っていなければならない。

 使い古された言葉ですが「教師は聖職者」です。

■2012年08月09日(木)10:24  ガンバ
┌───今日の注目の人───────────────────────┐



      「強いチームと弱いチームの差」


        眞鍋政義(全日本女子バレーボールチーム監督)


                『致知』2011年9月号
                 特集「生気湧出」より
     http://www.chichi.co.jp/monthly/201109_pickup.html#pick6

└─────────────────────────────────┘


いろいろなチームを渡り歩いてきた経験から思うのですが、
強いチームと弱いチームの差というものがやはりありましてね。

例えば、試合前のミーティングで
監督の思いが一方通行になっている。

「こうしろ、ああしろ」と言われて選手たちが
「はいはい」と言っているだけ。

こういうチームはやはり勝てません。

反対に選手が自分たちの問題点を自分たちで考えて分析し、
スタッフと思いを同じくして
試合をしているチームは強いですね。

私がコミュニケーションを重視し、
選手にいろいろな提案を求め、耳を傾けるのはそのためなんです。
 
私は監督で立場的には一番上です。
だけど一方通行にならないよう、
できるだけ選手と目線を同じくして、
選手がこの練習メニューで本当に満足しているか、
困っていることはないかなどを聞いて、
一番実力を発揮できる環境を整えてあげたいと思っています。


【記者:コミュニケーションの成果は
    どのような時に感じられますか?】


ゲームの後、スタッフたちがそれぞれの選手の
ゲーム中のスパイク、ブロック、サーブの数値を
パソコンで打ち出します。
   
一昨年まで、スタッフの部屋に自分のデータを
取りに行って勉強し、反省しようとする選手は
ほんの数人にすぎませんでした。
 
ところが、昨年から自分の成績に関心を持つ選手が増えて
頻繁にスタッフの部屋に行っては映像を見て、
自分で分析するようになったんですね。
私はこの差は大きいと思います。

自分たちで考えるようになったご褒美が
世界選手権の銅メダルだと思うくらいです。


コミュニケーションに関して申し上げれば、
選手やスタッフの中でチームみんなで
戦ったという意識がとても高まりました。
 
濱口華菜里という選手がいるんですね。
レシーブに天性の才能を持っている世界選手権のメンバーです。

明るい性格で、いつも大きな声で皆を
励ましてくれるし練習にも人一倍熱心。
人の嫌がる片づけも率先してやってくれます。
だけど、私はこの濱口を選手権に
出場させてあげられなかったんです。
 
世界選手権もW杯も14名登録で、出場できるのは12名。

濱口が務めるリベロの控えはなかなか出る機会がない。
本当に悔しかったと思います。
だけどそれでも濱口のファイトは最後まで変わりませんでした。
練習には早く来てムードを盛り上げて、雑用で走り回って……。
 
メダルを獲得できたのは、
この濱口の姿勢が周りに伝わったからだと私は思っています。
 
銅メダル獲得が決まった試合の直後、
セッターの竹下佳江はすぐに濱口に駆け寄り、抱き合ってました。


その後のインタビューでも竹下は毎回のように
「出られない選手がいるから、その選手の分まで頑張りました」
と語っていましたが、これには私自身
本当に勉強させられましたね。

  
控えの13番目、14番目にどんな選手を置くかで
チーム力は強くもなるし弱くもなる。
その難しさを昨年私は実感したんです。

おかげで全員が同じ方向を向いて目標を共有できており、
強いチームに変わってきたことを実感しています。

  
【記者:火の鳥NIPPONの活躍を通して感じるのは、
    日本が独自の力を発揮できれば、
    この国はもっと元気になるということです】


そう思うし、ぜひそうあってほしいですね。
精密力はやはり日本人の強みなわけですから。
強みを伸ばすことで弱みが克服でき、生気が湧くはずです。

精密力が高まれば全体力が
必ずアップすることを私は確信しています。

それを実証する上でも、
誰より私たち全日本女子が11月のW杯、
来年のロンドン五輪で栄冠を手にすることで
日本を元気づけなくてはならないと思っているんです。

昨年の世界選手権以降、
選手もスタッフも目の色が違います。
生気が漲ってきた。

必ずやってみせますよ。

期待していてください。

2012年08月07日(火)08:28 
┌───今日の注目の人───────────────────────┐


        日本サッカー飛躍の陰の功労者
         強さの秘訣は「言語技術」

     日本サッカー協会副会長・田嶋幸三氏の名言


                『致知』2012年9月号
                 特集「本質を見抜く」より

└─────────────────────────────────┘


 ◆ (サッカーには)身体能力とか技術の高さはベースに必要ですが、
   そういったものはあるレベルに達するとそう変わらなくなってきます。
   その時、何が大切かというと、
   いかに考えてプレーをするかということなんです。



 ◆ たとえ失敗しても自分で考えながらやっている選手は、
   次はこうしようとまた自分で次の方法を考えられます。
   しかし何も考えずに、
   言われたことしかやってこなかった選手は
   自分で改善することができない



 ◆ サッカーを教える前に、やらなければならないことがある。
   そう思ったものです。
   そして見えてきたのが「エリート教育」でした。
  


 ◆ 「エリート」という言葉は日本では敬遠されますが、
   ヨーロッパなどではいろいろな分野のリーダーであり、
   社会に奉仕する人のことをいいます。
   そういう自覚と能力を持った人のことです。
 
   サッカー選手たちは
   素晴らしい肉体を与えられた「エリート」なんです。
   それを多くの人に見てもらい、感動を与える、
   それはまさに社会貢献です。
   逆に言えばそういう義務があるのです。



 ◆ サッカーをとことん愛し、
   それを追求したいという気持ちを持っていれば、
   こうすればいいんじゃないか、
   ああすればいいんじゃないかと気づく。
   
   そうやって何度でも
   トライ&エラーを繰り返すうちに、
   本質に近づいていけるのではないかと思っています。

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