2012年08月22日(水)16:11
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■■ Japan On the Globe(443)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
人物探訪: 稲盛和夫 〜 「世のため人のため」の経営哲学
従業員の物心両面の幸福を追求するのが、 経営者の役割。 ■転送歓迎■ H18.04.30 ■ 34,176 Copies ■ 2,041,499 Views■
■1.「そのような考え方では米国では成功できない」■
1989(平成元)年、京セラはアメリカの電子部品メーカー AVX社を買収した。世界8カ国に18の生産拠点と1万人近く の従業員を持つ大企業である。通常、日本企業が外国企業を買 収すると、本社から経営陣を送り込み、管理しようとする。そ れに対して、京セラの創業者・稲盛和夫はこう考えた。
しかし、私は企業合併は結婚のようなものであり、心か ら信頼できる関係を築き上げることがもっとも大事だと考 えていた。だから、買収が成立しても、経営陣はそのまま にし、京セラの考え方をできるだけ早く先方に伝え、共有 できるようになりたいと思った。[1,p5]
そのために、稲盛はAVX社の幹部との勉強会を持って、自 分の経営哲学を語った。「私心があってはならない」「働く意 義や目的がもっとも重要だ」と語る稲盛の言葉に、幹部社員は 否定的だった。「そのような考え方では日本では成功できても 米国ではできない」「それでは我々はついていけない」と言う。
しかし、人間の本質は洋の東西を問わず同じであると信ずる 稲盛は、数日間の勉強会を再三持って、彼らの疑問に一つ一つ 丁寧に答えていった。その結果、彼らは「あなたの経営に関す る考え方はよく分かった。その方が確かに素晴らしいので、こ れからはあなたの経営哲学をベースとしてAVX社を経営して いきたい」と言った。
こういう経営陣に率いられた同社は、買収後の6年間で売上 は3倍、利益は6倍に成長し、バブル期に行われた多くの海外 企業買収の例外的な成功例と言われた。
■2.「一致団結して、世のため人のために」■
稲盛が京セラを創業したのは、昭和34(1959)年、27歳の ことだった。当時、京都の小さな碍子会社で、セラミック真空 管の開発に悪戦苦闘していたのだが、新任の技術部長に「君の 能力では無理だな。ほかの者にやらせるから手をひけ」と言わ れた。
稲盛は、頭の血が逆流して、「無理というのであれば、会社 を辞めます」と辞表を叩きつけた。稲盛が退社すると聞いた部 下たちが寮に押しかけてきた。一緒に粉まみれになって製品開 発に取り組み、夜は飲みながら「素晴らしいセラミック部品を 世に送り出そう」と気炎をあげていた仲間たちである。「こう なったら自分で会社をやってみるか」と稲盛が言うと、部下た ちは口々に「自分も辞めてついていく」と応えた。
稲盛は、自分に人生を託してついてきてくれる人たちの気持 ちに感激して、誓いの血判をしようと呼びかけた。血の気の多 い一同はすぐに賛成して、次の誓詞を書き上げ、血判をした。
一致団結して、世のため人のためになることを成し遂げ たいと、ここに同志が集まり血判する。
■3.社員たちの「要求」■
こうして社員総勢28名の京都セラミックが出発した。幸い、 松下電子工業からテレビ用磁器部品の大量注文が入り、限られ た人員と設備で、来る日も来る日も徹夜の連続でフラフラにな りながら納入した。一年間、わき目もふらずに走り続け、最初 の年から黒字が出た。翌年は売上、利益とも倍増の勢いだった。
創業3年目の昭和36(1961)年4月末、前年に入った高卒社 員11名が突然、稲盛の席に来て「要求書」を突き出した。定 期昇給とボーナスなど将来の保証をして欲しい、との内容で、 「これを認めてくれなければ、みんな辞めます」と思い詰めて いる。
みな深夜残業を一生懸命こなしてくれていた連中だ。ここま で言うのは、よほどのことだろう、と稲盛は彼らを自宅にに連 れて帰り、ひざを付き合わせて語り合った。
来年の賃上げは何パーセントと言うのは簡単だ。でも実 現できなかったらウソをつくことになる。いいかげんな事 はいいたくない。
そう語る稲盛に、やがて一人ずつうなずいてくれたが、最後 の一人は「男の意地だ」と聞かない。交渉は3日に及び、最後 に「もし、お前を裏切ったら、おれを刺し殺してもいい」と迫 ると、ついに彼は稲盛の手を取って泣き出した。
■4.会社を経営するということの重荷■
交渉が終わった後、稲盛は重苦しい気分になった。こんなさ さやかな会社でも、若い社員たちは一生を託そうとしている。 自分の技術を世に問おうと会社を始めたが、こんな重荷を背負 うことが会社を経営するということなのか。とんでもない事を 始めてしまった。
数週間も悩んだ末、稲盛はふっきるようにこう思った。
もし、自分の技術者としてのロマンを追うためだけに経 営を進めれば、たとえ成功しても従業員を犠牲にして花を 咲かせることになる。だが、会社には、もっと大切な目的 があるはずだ。会社経営の最もベーシックな目的は、将来 にわたって従業員やその家族の生活を守り、みんなの幸せ を目指していくことでなければならない。
何か胸のつかえがスーッととれる思いがした。京都セラミッ クは、稲盛の個人的な理想実現を目指した会社から、全従業員 の物心両面の幸福を追求する会社に生まれ変わった。
しかし、それでもまだ足りない気がした。自分の人生は従業 員の面倒をみるだけで終わってよいのだろうか。自分の一生を かけて、社会の一員として果たすべき崇高な使命があるはずだ。 そこで生涯をかけて追い求める理念として「人類、社会の進歩 発展に貢献すること」と付け加えた。
■5.「神に祈ったか」■
昭和41(1966)年4月、IBMから集積回路用基板25百万 個の注文が来た。IBMが社運を賭けて開発している大型汎用 コンピュータ「システム/360」の心臓部に使われる部品だ。 技術力さえあれば、名もない小企業にも発注するのが、アメリ カの一流企業のやり方である。
しかし、その難しさは、京セラの技術をもってしても、果た して対応できるか、こころもとないレベルだった。仕様書にし ても、本1冊くらいの厚さがあり、寸法精度、表面の粗さ、比 重、吸水率など、従来よりも一桁厳しい仕様が並んでいる。
京セラの技術を世界トップに引き上げる絶好のチャンス、と 稲盛の闘争心に火がついた。工場の寮に住み込んで、原料の調 合、成形から焼成まで、全工程の陣頭指揮をとった。
3ヶ月、4ヶ月と時間は容赦なく過ぎていき、失敗した試作 品の山ばかり高くなっていく。ある日、深夜まで働いている社 員たちを激励しようと、夜中の2時頃に工場を回っていると、 プレスの担当者が電気炉の前で肩を震わして泣いている。炉内 の温度が均一にならず、何度やっても寸法に微妙な差が出てし まう。その日も、今度こそという思いで炉を開けて、製品を取 り出してみたのだが、やはり寸法がずれていたので、泣き出し てしまったのだ。
稲盛は「焼成する時に、どうかうまく焼成できますようにと 神に祈ったか」と聞いた。神に祈るしかないほど、最後の最後 まで努力を傾けたか、と言いたかったのだ。「神に祈ったか、 神に祈ったか」と、何度も繰り返した彼は、「わかりました。 もう一度一からやってみます」 やがて、彼はこの難題を解決 した。
■6.「成功のための方程式」■
こんな苦労を積み重ねて、ついに7ヶ月後に、IBMから合 格通知が来た。しかし、本番はこれからだ。25百万個という 膨大な量を納期までに納めなければならない。24時間三交代 で月産百万個を目標にフル操業に入った。ふたたび、稲盛が現 場の陣頭指揮をとった。
ある日、大雪が降って、交通機関がストップした。各方面に 迎えのバスを出したが、全面操業にはほど遠かった。昼近くパ ートの女性が雪まみれの姿で現れ、「こんなに遅れて申しわけ ありません」というなり、プレス機に向かった。2時間半も歩 いて、工場にたどり着いたという。
2年余り、全社員一丸となって生産に取り組み、ついに期限 までに25百万個を完納する事ができた。京セラの製品が、 IBMから高い評価を得たという噂は、たちまち国内の電気・ 電子メーカーを駆けめぐった。
最後の出荷トラックが出発するのを見送りながら、稲盛は なんとしてもやり遂げるという強烈な願望を持ち続けることの 大切さをしみじみ味わった。こうした経験から、稲盛は次の 「成功のための方程式」を提唱している。
人生の結果 = 考え方 × 熱意 × 能力
プレスの担当者やパートの女性の「能力」は平凡でも、「世 のため人のため」という正しい「考え」を持ち、それを並はず れた「熱意」で取り組んでいけば、立派な結果を出せるのであ る。そして、従業員にそれだけの「熱意」を吹き込んだのが、 稲盛の経営者としての情熱であった。
■7.運命共同体■
「月商10億円を達成してハワイに行こう」と稲盛がブチ上げ たのは、昭和47(1972)年のことだった。前年の月商が5、6 億円で、一挙倍増の目標を立てたのである。
まだ一般の人間には海外旅行は手が届かなかった時代だった。 稲盛は10年前にアメリカに出張した時の、震えるようなとき めきが忘れられなかった。あの感動を、苦労をともにしてきた すべての従業員に味あわせてあげたい、という気持ちだった。
「2等賞はないのか」という声が出て、「それなら9億円で香 港」と決めた。社内はハワイ、香港の話題で持ちきりになった。 結果は9億8千万円。翌48年1月、1300人の社員がチャ ーター便で次々と香港に向かった。掃除のおばさんから社長ま で、全員参加で2泊3日の香港旅行を楽しんだ。
翌々年、オイルショックが直撃。受注が激減し、半分の人が 余った。しかし、創業以来、全社一体となって苦楽をともにし てきた運命共同体である。稲盛は、雇用は死守する、と宣言し た。
それでも創業以来の苦境に「賃上げを一年間凍結して欲しい」 と組合に申し入れた。組合は満場一致でその受け入れを決めた が、上部団体のゼンセン同盟が「凍結は困る。統一要求の29 %の賃上げを会社につきつけろ」と言ってきた。
組合内で激しい議論の後、各企業それぞれの労使関係に配慮 しない一方的な指示には従えないと、ゼンセン同盟脱退を決議。 以後、独立独歩の道を歩むこととなった。この時に、制定され た「京都セラミック労働組合憲章」は、こう謳いあげている。
組合の存在は人間集団の永久の幸福づくりにあり、労使 は共に運命を切り開き、同じ考えのもとに喜びも悲しみも 分かちあう厳しい労使同軸の関係にある。労使はこの重大 な責任をいわば二分するものである。
■8.「善の循環」■
平成10(1998)年夏、コピー機メーカー・三田工業の社長・ 三田順啓氏が、突然、稲盛に会社の救済を頼んできた。稲盛の 経営哲学を知り、京セラなら従業員を幸せにしてくれると思っ たそうだ。三田氏の社員を思う純粋な心根に打たれ、稲盛は支 援を快諾した。
京セラの支援を受けた新生「京セラミタ」の社長・関浩二氏 は、京セラグループの国際経営会議で次のような挨拶をした。
私は今、京セラミタの社長をしているのですが、そのこ とに運命のようなものを感じています。私は、22年前に 稲盛名誉会長が救ってくださったサイバネット工業の出身 です。当時、サイバネット工業は倒産寸前の会社であり、 中堅幹部であった私は、明日の生活を心配していました。 そんな時、稲盛名誉会長が手を差し伸べて下さり、その時 の喜びと感謝の気持ちは、一生忘れません。
ところが、今回は私が京セラ幹部として、三田工業を救 う番になりました。京セラミタの社員も、昔の私と同様に 京セラの支援を心から喜び、会社再建のため一生懸命努力 しています。そのため業績もどんどんよくなってきていま す。私も恩返しのつもりで、社員と一緒に精一杯頑張りた いと思います。
涙ぐみながらこう語る関社長の言葉に、「善の循環」とはこ ういうものかもしれない、と稲盛は思った。
■9.経営者の望みうる最高の代償■
京セラの事業の成功から、稲盛は相当の資産を得たが、それ は自分のものではなく、社会から預かったものだと思うように なった。そして「預かりもの」である資産を「世のため人のた め」に使って、恩返しをしようと考えた。そのために640億 円もの資産を提供して創設したのが、先端技術や基礎科学、表 現芸術などの分野で、人類の文明と精神的深化のために尽くし た人々を顕彰する「京都賞」であった。
経営者が苦労して得た報酬すら社会からの預かりものだとす れば、一体、何が苦労の代償なのだろう。稲盛はこう考えてい る。
おわかりでしょうが、このように企業の経営者というの は、たいへんな重責を負っています。一瞬たりとも気を休 めることができず、努力を怠ることもできません。考えれ ば考えるほど、経営者であることはそのストレスや責任に 見合うほどの価値がないと思うかもしれません。それほど の責任に対する代償を、経営者は得られるのでしょうか。 私は得られると思います。
経営者の献身があるからこそ、多くの社員が現在や将来 に希望をつないで生活していけるのです。彼らは経営者を 信頼し、尊敬しているはずです。
金銭では量れないこの社員のよろこびや感謝こそ、経営 者の望みうる最高の代償なのです。 (文責:伊勢雅臣) | | |