2012年09月30日(日)13:11 
┌───感動する『致知』の話────────────────────┐



     「紙芝居は我が命」


        杉浦貞(プロ街頭紙芝居師)

                『致知』2012年10月号
                      致知随想より

└─────────────────────────────────┘


まだ誰もいない公園を背に、
よく音のとおる拍子木を打ちながら街を回る。

二十分もすれば、子供たちが公園に集まり出す。
子供たちが自らの感覚で小さい子は前、
大きい子は後ろの順で座りだせば、
いよいよ街頭紙芝居の始まりだ。

街頭紙芝居は、マンガ一巻、続き物の物語一巻、
最後にとんちクイズ十問が出て、
正解者は水飴券がもらえるという決まりで行われる。

もっとも紙芝居はただ子供たちを喜ばせればよいと
いうものではない。

例えば水飴券は一週間後にしか使えないため、
その間子供たちには我慢することを教えている。

また、クイズでの「ハイ」の返事は、
私の目を見てしないとやり直しをさせている。
元気な返事が子供たちの自立心を育て、
友達関係を良好に築く原点となるのだ。

私はプロの街頭紙芝居師としてこの道三十二年、
毎週十二か所以上、年間六百回以上紙芝居を
上演することを生活のためのノルマとしてきた。

しかも駄菓子の値段を三十二年間、
一度も値上げすることなく一律五十円を守り続けているのだ。

だが最盛期だった昭和三十年代に
紙芝居師が全国に五万人いたのもいまは昔。

現在、紙芝居で生計を立てているプロの街頭紙芝居師は
八十一歳になる私一人のみだが、
二百年の歴史を持つ紙芝居という、
日本独自の文化を担っているという気負いはない。

むしろいまの仕事は我が天分であり、
楽しくてやめられないというのが本音だ。


初めて街頭紙芝居を見たのは二十歳の時だった。
石川県羽咋市という田舎から身一つで大阪に出てきた私は、
その日も日雇いの仕事を終え、
大道芸が並ぶ盛り場をあてもなく歩いていた。

ふと広場の片隅に年配の老人が子供や婦人たちを集めて
何かをしているのに気がついた。
聞けば紙芝居屋といって、いっぱしの職業だという。

肉体労働だけが生きる道だと考えていた自分には、
口先一つで生活ができると知った時の
驚きと感動はいまも忘れられない。

紙芝居師を志したのは勤めていた会社が
倒産する一年前、四十八歳の時だった。

すでに紙芝居師は街からほとんど姿を消していたが、
かつて二十歳の時に大阪で偶然出会っていた
紙芝居への潜在意識に火がついたのだ。

最初は祝祭日に知人から道具一式を借り、
家から遠く離れた公園で見よう見まねで上演した。

当時紙芝居師は乞食の一つ上と蔑視され、
家族は私が近所で紙芝居を演ずることを嫌がったからだ。
そんな最中に会社が倒産。

過去二度倒産の憂き目を味わった私にとって
新たな職探しは気が重く、
その反動からかますます紙芝居にのめり込んだ。

だが失業保険が切れる頃になると、
家族の強い反対もあって焦りが募り、
職探しで紙芝居を一週間ほど休んだことがあった。

すると街で私を見つけた子供たちが
しきりに紙芝居をせがんでくる。

いつの間にか、子供たちとの間に仲間意識が芽生えていたのだ。
私の紙芝居を待つ子供たちがいる――。

この瞬間、腹が決まった。


「明日必ず行くから待っとれ!」。


紙芝居屋として生きていこうという
強烈な人生の決断が生まれたのだ。

しかし現実は厳しい。
私の収入が減ったため、妻はパートに、
そして子供二人は高校生になると
バイトに出ざるを得なくなった。

将来への不安が常につきまとい、
それまでの温かい家庭の雰囲気は消え、
殺伐とした空気が漂うようになった。

さらに追い討ちをかけるように、
紙芝居に子供が集まらなくなってきた。

いま思えば紙芝居がマンネリ化していたのだが、
それでも雨さえ降らなければ
毎日、毎日公園へと夢中で出掛けていった。

一月下旬、その日は朝から雪だったが、
午後から急に晴れ間が差すとすぐに街中へ飛び出す。

しかし、目指す市営団地の広場には
雪が積もり誰も集まらない。

いたたまれない気持ちでその場を去ろうとした時、
一人の女の子が自転車置き場の隅からそっと現れた。

私の顔をじっと見つめ、


「おっちゃん、水飴ちょうだい」


と百円玉を差し出してきた。

私は自分が惨めでしょうがなかったが
しぶしぶ水飴をつくった。

そしてもう一本水飴を求めたその子に
「おっちゃん、ご飯食べられるんか」と言われた時には、
私のさもしい心が見透かされてしまったように感じ、
逃げるようにその場を後にした。

その子のことが頭から離れぬままに
十日ほど過ぎただろうか。

ふと自分は心のどこかで子供たち相手の商売を
馬鹿にしていたことに気がついた。

お菓子を買ってくれるのは大人ではなく子供たちなのだ。
自分たちの仲間だと思って対等な気持ちで
水飴を買ってくれる子供たちは、
私の生活の神様なのだ。

そう閃いた瞬間、心が晴れ晴れとして気持ちが
どんどん前向きになるのを感じた。
そして子供たちが喜んでくれることだけを
四六時中考え続けるようになって、
俄然紙芝居が面白くなってきた。

それからは「村田兆治物語」など
意欲的に新しい紙芝居の題材にも取り組んだ。

今年二月には新作「応答せよはやぶさ」を持って、
毎月一週間、東北三県の復興支援ボランティア紙芝居を実践し、
老人や子供たちに諦めない心の大切さと
生きる勇気や感動を伝えている。

きょうも街のいつもの広場や公園で
拍子木を合図に私の紙芝居が始まる。

辛いことは幾度もあったが、
紙芝居師としての自負心や楽しさと、
溢れる感性を武器にその時その時の道を切り開いてきた。

プロ紙芝居師とは、子供たちとの友情を創造し、
深め合える神聖な職業だ。

そして仕事を通じて人格を磨き高め、
紙芝居道の確立に命を燃やすことが私の生きる道なのである。

2012年09月16日(日)17:46 
◆ 致知出版社の「人間力メルマガ」-----2012年9月16日 ◆


  月刊『致知』では毎号テーマを立て、特集を組む中で、
  そのテーマを鮮明にし、 特集の道標とするために、
「総リード」という文章を巻頭に載せています。

  本日は、2011年1月号に掲載された
  総リード「盛衰の原理」の全文をご紹介いたします。


┌─────────────────────────────────┐

      

         「盛衰の原理」


             『致知』2011年1月号
                 特集総リードより


└─────────────────────────────────┘


今年(平成23年)、日本は皇紀2671年である。

海に囲まれた小さな島国が、さまざまな試練を経ながら
高い民度と文化を備え、今日まで発展してきたのはなぜだろうか。
そこに盛衰の原理のヒントがあるように思われる。

例えば、伊勢神宮では、正殿をはじめ社殿のすべてを
新たに造り替える式年遷宮が、20年に1回行われてきた。
2年後に迎える式年遷宮は62回目になる。

今回の総工費は550億円。
うち220億円は民間からの志によると聞く。

第1回の式年遷宮が行われたのは持統天皇4(690)年。
戦国時代に中断されたことはあったが、
以来1300年、この行事は連綿と続けられている。

伊勢神宮だけではない。全国でその地にある神社が
地域の人々によって大事に護持されている。
これは世界の驚異と言っていい。


渡部昇一氏に伺った話である。

氏は若い頃、ギリシャのスニオン半島を2週間ほど旅し、
ポセイドン神殿はじめ多くの遺跡を見た。

帰国後、石巻に行った印象が忘れられないという。

石巻には港を見下ろす丘に大きな神社がある。
その祭りを町を挙げて祝っていた。

海を見晴らす丘に海神を祀るのはギリシャも日本も同じだが、
ギリシャの神ははげ山の中の遺跡と化している。
しかし、日本の神は豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮座し、
住民がこぞって祝っている。


「古代ギリシャ文化はもはや死んでしまったが、
古代日本文化はいまもまさに生きているのです」


この事実は何を物語るのか。

ギリシャ神話は有名だが、神々の系譜は神話の中だけで
完結、断絶し、いまに繋がっていない。

これに対して日本は、天照大神の系譜に繋がる
万世一系の天皇という具体的な存在を軸に、
我われの先祖は目に見えないもの、
人知を超えたものを畏敬し、尊崇する心を、
2000年以上にわたって持ち続けてきた、ということである。

そしてこの民族の魂は今日もなお生き続けている、
ということである。


目に見えないものへの畏敬、尊崇の念は、自らを律し、
慎む心を育んでいく。


「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らむ」


という心的態度はこの国に住む人たちに
共通した価値観となって定着した。

言い換えれば、私たちの先祖は
「自反尽己(じはんじんこ)」に生きたのだ。

自反とは指を相手に向けるのではなく、
自分に向ける。すべてを自分の責任と捉え、
自分の全力を尽くすことである。

そういう精神風土を保ち続けたところに、
この国の繁栄の因がある。


同時に忘れてならないのが、我々の先祖が
絶えず後から来る者のことを考え、
遠き慮の心を持ち続けたことだろう。

詩人の坂村真民さんはそういう先人の祈りを
象徴するような詩を残している。



《あとから来る者のために


 田畑を耕し 種を用意しておくのだ


 山を 川を 海を きれいにしておくのだ


 ああ あとから来る者のために


 苦労をし 我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ


 あとからあとから続いてくる あの可愛い者たちのために


 みなそれぞれ自分にできる なにかをしてゆくのだ》

2012年09月06日(木)10:47 
┌───今日の注目の人───────────────────────┐



     荒れた高校を就職率100%へと変革させた
        久保田憲司氏の教育信条


                『致知』2012年10月号
                 特集「心を高める 運命を伸ばす」より


└─────────────────────────────────┘


 ◆ 生徒にはいつも「とことん」「本気」、
   何をやる時もこれを大事にしようと言ってきました。
挨拶一つ、ゴミ捨て一つでも本気でしようと。

どうせやるなら仕方なしではなく、
思い切りやったほうが気分もいいし、
絶対自分に返ってくる。



 ◆ やっぱり何をおいても夢中にさせることですね。
夢中になれば人間は自然とできてくる。



 ◆ 私にとってのものづくりの神様は本田宗一郎さんでしてね。
   もう“バカ”がつくくらい心酔しているんです。
本田さんの本もたくさん読みましたが、
「成功とは99%の失敗に支えられた1%」
「120%のものをつくれ」といった言葉には、
   ものづくりに携わる者の心構えを教えられます。



 ◆ 躾は背中を見せて教えるものだともいいますが、
やはり教えなければ身につかないというのが実感です。



 ◆ 生徒たちの心を変えるのは、やはり彼らを導く教師の熱意。
   それしかないと私は思います。



 ◆ 私の好きなイギリスの教育者の話に、
  「普通の先生は説明をする。
   ちょっとできる先生は手本を見せる。
   優れた先生は生徒の心に火を点ける」
   とありました。

   私はこの話に共感を覚え、
いつもそういう気持ちで生徒と向き合ってきました。



 ◆ 私は「日本一」を口癖に生徒を導いてきました。
高い目標や夢を持ち、それに向かって一所懸命に努力することは、
   心を高め、運命を伸ばすことに繋がると思います。

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