2012年11月26日(月)10:49 
   本日は『致知』2004年12月号に紹介され、
   反響を呼んだ興味深いデータをお届けします。

      「アメリカのある家計調査記録より」
             『致知』2004年12月号
               特集「徳をつくる」より

こういう話を聞いて慄然としたことがある。
アメリカの家計調査広告に残る記録である。

ジュークは1720年ニューヨーク州に生まれた。
怠惰な無頼漢であった。
1877年の調査では、彼の家計は
六代を経る中で約1200人の怠け者、背徳漢、漁色、
貧窮、病弱、知的障害、精神病者、犯罪者がうまれた。

この間300人が嬰児期に死亡、
440人が病的な行為で肉体的に破滅、
前科者は130人で、60が窃盗、7人が殺人。
手に職をつけたのはわずか20人だった。

ジュークと同年代に生まれたJ・エソワードは
代表的清教徒で神学者。

1900年に彼の家計は1394人を数えた。

そのうち3人が大学総長、65人が大学教授および学校長、
100人以上、公職に就いた80人の中には副大統領が一人、
上院議員が3人、ほかに知事、下院議員、市長、公使などがいる。

15の鉄道、多数の銀行、保険会社、産業会社などが
この家系の人びとによって運営されていた。

1人の人間の徳の有無がいかに大きな影響を及ぼすか。
私たちは肝に銘じなければならない。

2012年11月25日(日)09:00 
◆致知出版社の「人間力メルマガ」-----2012年11月25日 ◆


  先週、カンボジアに訪れた野田首相が参拝した
  2人の日本人の慰霊碑。
  うち一人は、中田厚仁さんという若者の碑でした。

  平成5年に、国連ボランティアとして活動中に銃撃され、
  25歳で亡くなった中田さんの生き方とは
  どのようなものだったのでしょうか?

  ぜひ最後までお読みください。



┌───随想ベストセレクション───────────────────┐


     「息子の名前がつく村 〜ナカタアツヒト村〜」



        中田武仁(国連ボランティア終身名誉大使)

                『致知』2008年9月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘


平成4年になって間もなく、大阪大学を卒業し、
外資系のコンサルティング会社に
就職が決まった息子の厚仁(あつひと)から、
1年間休職し、国連ボランティアとして
カンボジアに行きたい、という決意を打ち明けられた。

カンボジアは長い内戦をようやく抜け出し、
国連の暫定統治機構のもとで
平成5年5月の総選挙実施が決まった。

人々に選挙の意義を説き、
選挙人登録や投開票の実務を行う選挙監視員。
それが厚仁が志願したボランティアの
任務の内容だったのである。


厚仁の決意は私にとって嬉しいことであった。
商社勤めの私の赴任先であるポーランドで、
厚仁は小学校時代を過ごした。

いろいろな国の子どもたちと交わり、
アウシュビッツ収容所を見学したことも契機となって、
世界中の人間が平和に暮らすには
どうすればいいのかを考えるようになった。


世界市民。

その意識を持つことの大切さを
厚仁はつかみ取っていったようである。

1年間のアメリカの大学留学も
その確信を深めさせたようだった。
国連ボランティアは、
厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、と感じた。

だが、現地の政情は安定には程遠い。
ポル・ポト派が政府と対立し、選挙に反対していた。
息子を危険な土地に送り出す不安。

私には厚仁より長く生きてきた世間知がある。
そのことを話し、それらを考慮した上の決意かを問うた。
厚仁の首肯(うなず)きにためらいはなかった。
私は厚仁の情熱に素直に感動した。



カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、
政府に反対するポル・ポト派の拠点、コンポントム州だった。
自ら手を挙げたのだという。
私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。

厚仁の任務があと1か月ほどで終わろうとする
平成5年4月8日、私は出張先で
信じたくない知らせを受けた。


厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、
射殺されたのだ。


現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに
現地の人びとに信頼されていたかを知った。
厚仁の真っ直ぐな情熱は、
そのまま人びとの胸に届いていた。

カンボジア佛教の総本山と尊崇されている寺院で、
厚仁は荼毘(だび)に付された。
煙がのぼっていく空を見上げた時、
厚仁は崇高な存在になったのだと感じた。


私は決意した。

長年勤めた商社を辞め、
ボランティアに専心することにしたのだ。
そんな私を国連はボランティア名誉大使に任じた。

そういう私の姿は厚仁の遺志を引き継いだ、
と映るようである。

確かに厚仁の死がきっかけにはなった。

だが、それは私がいつかはやろうとしていたことなのだ。
厚仁のように、私もまた自分の思いを貫いて
生きようと思ったのだ。

私はボランティアを励まして
延べ世界50数か国を飛び回った。
それは岩のような現実を素手で
削り剥がすに似た日々だった。

ボランティア活動をする人々に接していると、
そこに厚仁を見ることができた。
それが何よりの悦びだった。


厚仁が射殺された場所は人家もない原野なのだが、
カンボジアの各地から三々五々その地に人が集まり、
人口約1000人の村ができた。

その村を人々はアツ村と呼んでいる、と噂に聞いた。
アツはカンボジアでの厚仁の呼び名だった。
人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、と思った。


ところが、もっと驚いた。


その村の行政上の正式名称が
ナカタアツヒト村ということを知ったのだ。


このアツ村が壊滅の危機に瀕したことがある。
洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。

私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、
集まった四百万円を被災した人びとの
食糧や衣服の足しにしてくれるように贈った。

ところが、アツヒト村の人々の答えは私の想像を絶した。
カンボジアの悲劇は人材がなかったことが原因で、
これからは何よりも教育が重要だ、
ついてはこの400万円を学校建設に充てたい、
というのである。


こうして学校ができた。

名前はナカタアツヒト小学校。
いまでは中学校、幼稚園も併設され、
近隣9か村から600人余の子どもたちが通学してきている。

やがては時の流れが物事を風化させ、
厚仁が忘れられる時もくるだろう。
だが、忘れられようとなんだろうと、
厚仁の信じたもの、追い求めたものは残り続けるのだ。

これは厚仁がその短い生涯をかけて
教えてくれたものである。


厚仁の死から15年が過ぎた。

ひと区切りついた思いが私にはある。
楽隠居を決め込むつもりはない。
国連は改めて私を国連ボランティア終身名誉大使に任じた。

この称号にふさわしいボランティア活動を、
これからも貫く決意だ。

15年前、あれが最後の別れになったのだが、
一時休暇で帰国しカンボジアに戻る厚仁に、
私はこう言ったのだ。


「父さんもベストを尽くす。厚仁もベストを尽くせ」


ベストを尽くす。

これは息子と私の約束なのだ。

厚仁の短い生涯が、人間は崇高で信じるに足り、
人生はベストを尽くすに足ることを教えてくれるのである。

2012年11月13日(火)10:32 
     「天命追求型の生き方、目標達成型の生き方」
      
       
          白駒妃登美(結婚コンサルタント・マゼンダスタッフ)


             『致知』2012年3月号
              特集「常に前進」より


└─────────────────────────────────┘


この時、発病前に読んだ話を思い出しました。
 
人間の生き方には西洋の成功哲学に代表される
「目標達成型」とは別に「天命追求型」があるというのです。

天命追求型とは将来の目標に縛られることなく、
自分の周囲の人の笑顔を何よりも優先しながら、
いま、自分の置かれた環境でベストを尽くす。

それを続けていくと、天命に運ばれ、
いつしか自分では予想もしなかった高みに
到達するという考え方です。

そこでは、自分の夢だけを叶えるfor meより、
周囲に喜びや笑顔を与えるfor youの精神、
つまり志が優先されます。

私は天命追求型、目標達成型という視点で
歴史を捉えたことはありませんでしたが、
これからお話しするように、
天命追求型はまさに日本人が歴史の中で培った
素晴らしい生き方であることに、
闘病を通してようやく気づいたのです。
 

      * *


天命追求型に生きた歴史上の人物といえば、
豊臣秀吉はその好例でしょう。

秀吉は徳川家康、織田信長と比べて大きく違う点があります。

家康や信長が殿様を父に持つのに対し、
秀吉は農家に生まれたことです。

農民の子の秀吉が最初から天下統一を夢見たでしょうか。
通説によると、秀吉は
「侍になるために織田家の門を叩いた」
ということになっていますから、
おそらく若き日の秀吉は、
天下を取るなど考えてもいなかったに違いありません。
しかし、秀吉の人生はその夢を遙かに超えてしまうのです。

ご存じのとおり、秀吉は最初、信長に
“小者”という雑用係の立場で仕えました。

雑用係は、もちろん侍の身分ではありません。
けれども、信長が秀吉を雇い入れた時、
きっと秀吉は、農民の自分に
目をかけてもらえたことに胸を躍らせ、
心から感謝したのではないでしょうか。

だからこそ、たとえ雑用係の仕事にも
自分でできる工夫を施したのだと思います。

寒い日の朝、信長の草履を懐に入れて
温めてから出した話は有名ですが、
草履一つ出すにも喜んでもらえるようアイデアを加えたのです。

やがて足軽となってからも信長を喜ばせたい
という思いは変わらず、一層の信頼を得て侍に、
さらに侍大将、近江国・長浜城の城持ち大名へと登り詰めるのです。

私のことを振り返ると、目標達成に突っ走っていた時は、
確かに夢は叶いました。
受験勉強、就職活動、子育て、
すべてにビジョンを描き目標を立ててやってきました。

しかし、見方を変えれば夢しか叶わなかったのです。
夢を超えた現実はやってきませんでした。

では、秀吉はなぜ夢を超えることができたのでしょうか。
想像するに、秀吉は最初から天下取りなど考えず、
いつも“いま、ここ”に全力投球する生き方を
貫いたからだと思います。

自分の身の回りの人たちに
喜んでもらえることを精一杯やっていった。
その結果、周囲の応援を得て次々と人生の扉が開き、
天下人へと運ばれていったのではないでしょうか。

まさに天命追求型の人生だったのです。

2012年11月10日(土)09:46 
◆ 致知出版社の「人間力メルマガ」-----2012年11月10日 ◆


   今年9月に開催されたロンドンパラリンピックで
   日本団体競技史上初となる金メダルに輝いた
   ゴールボール女子日本代表。

   本日は現在発行中の『致知』12月号より、
   同チームの副主将を務めた浦田理恵さんのお話をご紹介します。


┌─────────────────────────────────┐

      

     「失明を乗り越え、初の金メダルへ」



        浦田理恵(ゴールボール女子日本代表)


              『致知』2012年12月号
               特集「大人の幸福論」より
        http://www.chichi.co.jp/monthly/201212_pickup.html


└─────────────────────────────────┘


私の場合は徐々に徐々に、じゃなくて、
20歳の頃にガクンと来たんですね。
左の目が急に見えなくなって、すぐに右の目、
とスピードが早かった。

小学校の先生になるための専門学校に通っていた時で、
卒業を間近に控えた3か月前の出来事でした。

これまでできていたことができなくなるのが本当に怖かったです。


1年半くらいは一人暮らしのアパートから出られず、
両親にも友達にも打ち明けられないままでした。
目が見えなくなってきたことが、
最初は受け入れられませんでした。

もう本当に凄くきつくて、お先真っ暗で、
見えないのなら何もできないし、
できないんだったら別に自分がいる意味なんてないと
考えたりもしました。

22歳のお正月の頃、
もう自分ではどうにも抱えきれなくなって、
このまま死んでしまうぐらいなら
親に言おうと思ったんです。

その決心がようやくできて、
福岡から久しぶりに熊本へ帰りました。


熊本へは電車で帰ったのですが、
全く見えないわけではないので、
こう行けばそこに改札があったなといった
記憶も辿りながら、駅のホームに降りて、
改札口のほうへ向かいました。


すると、すでに母が迎えに来てくれていたようで、


「はよこっちおいで。何、てれてれ歩きよると?」


と声がしました。

あぁ、お母さんや、と思って改札のほうへ向かったんですが、
母の声はするんですけど、顔が全然見えなくって……。

その時に、あぁ、私、親の顔を見たのは
いつやったかな、親の顔も見えなくなったんだということで、
自分の目がもう見えなくなったことを凄く痛感させられた。

改札のほうへも、さっさとは歩けないので
ちょっとずつ歩いたのですが、
母は私がふざけていると思ったそうです。

改札をやっと通り抜けて母の元へ行き、


「私……、お母さんの顔も見えんくなったんよね……」


と言ったら、母は


「ほーら、また冗談言って。これ何本?」


って指を出されたんですが、その数も全然分からなくて、
母の手を触って確認しようとした。

その瞬間、母はもう本当に、改札の真ん前だったんですけど、
ワーッとメチャクチャに泣き崩れて……。


それを見てる私も、自分は何をやってるんだろう、
とやるせない気持ちになったんですが、
でもこれまでずっと自分一人で抱えてきたものを伝えられたと、
肩の荷がちょっと下りた気持ちでした。


それと、親がしばらくして
「何か自分ができることを探さんとね」と声を掛けてくれた。
その時に、あぁ自分がたとえどんな状態になっても
親は絶対見捨てないでいてくれるなと実感できたんです。

それまでは家族の存在も、まるで空気のように
当たり前に感じていたのですが、
いてくれることのありがたさというのが
初めて身に染みて感じられました。

そしてこれだけ応援してくれたり、
励まして支えてくれる人がいるんだから、
自分も何かをやらないと、とそれまで後ろ向きだった気持ちが、
少しずつプラスに変化していきました。



※その後、浦田さんはいかに特訓を重ね、
 ロンドン五輪で金メダルを獲得したのか?
 詳しくは『致知』12月号をご覧ください。

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