2014年06月25日(水)10:45 
現在、日本は65歳以上の高齢者が
全人口の24%までに達し、
世界でトップクラスの超高齢化社会となっています。


そんな中、定年を過ぎてもなお気力・体力・知力を有する高齢者に
「働く場」と「生きがい」の提供を掲げ、
日本初の高齢者専門の人材派遣会社を立ち上げたのが
上田研二さんです。


その取り組みはテレビでも数多く紹介され、
いま大変注目を浴びています。


上田さんが創業に至った経緯とは。
なぜ業績を伸ばし続けているのか――。


┌────────今日の注目の人──────────┐



     「一生修行、臨終卒業」


     上田研二(高齢社会長)


    ※『致知』2014年7月号
      連載「致知随想」より



└─────────────────────────┘

一生修行、臨終卒業――。


この言葉を座右の銘として、東京ガスに勤めていた私は定年を機に、
日本初の高齢者専門の人材派遣会社「高齢社」を立ち上げました。
62歳のことです。


そのきっかけは、いまから20年ほど前に遡ります。


たまたま、政治家の故・橋本龍太郎さんの講演会に参加し、


「今後日本は少子高齢化社会を迎え、
 労働の担い手がどんどん減っていくだろう……」


という驚くべき事実を聞かされたのです。


「そうか。ならばこれから女性、高齢者、外国人、
 そしてロボットの労働力に注目が集まる時代が必ず訪れるに違いない!」


そう思い至った私は、かねてから定年後は起業を考えていたこともあり、
新しいビジネスの構想を温め始めたのでした。


そして、50代半ばにさしかかり、
元上司の方々の“老後”の悲惨な体験を耳にする機会が増えるにつれ、
私は高齢者に焦点を当てた会社をつくることを決意するようになっていったのです。


「退職後すぐは『毎日が日曜日』だと、
 ゴルフや飲み会で楽しく過ごせたけれど、
 そのうち飽きてやることがなくなり、
 家に居つくようになる。

 すると最初は優しかった女房に
 煙たがられるようになって、
 ついには家族皆からも邪魔者扱いだよ」


それではまるで産業廃棄物同然じゃないか。
経験も豊富で、優秀な技術者でもあった彼らに
もう一度活躍の場を与えてあげたい――。


そこで私は、定年退職者を対象にした人材派遣業ならば、
運営側にも教育コスト等負担が少なく、
高齢者に生きがいを提供しながら、社会の人材不足解消にも貢献できるはず、
と東京ガスのOBなどを中心に声を掛けて回り、
起業への準備を開始したのでした。


案の定、奥さんに「ぜひやりなさい」と叱咤された方も多かったようで、
私は設立の際の運営資金の出資と、社員を含め25名のベテラン技術者の協力を得て、
2000年1月、高齢社をスタートさせることができたのです。


その際に私が掲げたのが、長年のサラリーマン生活の中で培った、
資本主義ならぬ、人材を第一にする“人本主義”という理念でした。


それは、


「社員・協力企業≦顧客≦株主」


という公式を基に、


「高処遇→高質労働→高販売・高サービス→高収益→高処遇」


の好循環を実現し、従業員が生きがいを持って、
生き生きと働ける会社づくりをしていこうという考えです。


「人材なくては企業なし」というぐらいの思いが
経営者になければ従業員との信頼関係は築けない。


また「明日は我が身」と社員がリストラに怯えるような会社では、
お客様に喜んでもらえるサービスができるはずがないとの強い実感があったのです。


そこで私は年に2回、従業員と懇親を深める場を設け、
また社内報の発行、勤務などに関する相談窓口の設置、
会社に親しみをもってもらうために顔写真入りの登録証を作成するなど、
第一に人材を大切にするという社風を鮮明にしていきました。


そして、肝心の営業活動では、


「できます、やります、やらせてください」


を合言葉に、
まずは東京ガスおよび関係会社を中心に仕事を受注。


さっそくお客様から


「1時間前に出社して掃除をしてくれる」
「仕事が信頼できる」


などお褒めの言葉をいただき、
確かな経営の手応えを感じていきました。


初年度こそ赤字だったものの、その後は、
「質の高いベテランが低料金で来てくれる」と評判が広がり、
ガス機器メーカー、マンション管理会社などでも仕事が急増。


創業14年目で登録社員数680名、
売り上げ平成24年度で4億5千万円以上を記録するなど、
現在に至るまで業績は右肩上がりの成長を続けています。


  * * *


上田さんが経営の舵取りをする中で
心の糧にしてきた「ある言葉」とは。

創業3年目に、身体の自由が徐々に奪われていく
パーキンソン病と診断。

それでもなお、生涯現役で
仕事の第一線に立ち続けるワケとは――。


……この続きは『致知』7月号P89〜90をご一読ください。

2014年06月19日(木)09:36 
◆ 致知出版社の「人間力メルマガ」-----2014年6月19日 ◆


“日本水産界のジャンヌ・ダルク”と呼ばれ、
テレビや新聞、雑誌など、各メディアから
引っ張りだこの坪内知佳さん。


いま、日本の水産業の疲弊が叫ばれて久しい。


漁業が盛んな街として有名な
山口県萩市・大島も例外ではありませんでした。


そこに現れた救世主が
坪内知佳さん、27歳なのです。


シングルマザーとして女手一つで子育てに勤しむ傍ら、
約60人の漁師を束ね、6次産業化を実現。
いま全国に新鮮な魚介類を送り届け、
再び島に活気を取り戻しつつあります。


そんな坪内さんが語った
「人生の花を咲かせる秘訣」とは──。


┌───────今日の注目の人─────────┐



    「人生の花を咲かせる秘訣」


    坪内知佳(萩大島船団丸代表)


    ※『致知』2014年7月号
    特集「自分の花を咲かせる」より



└───────────────────────┘

──衰退の一途を辿っていた水産業で僅か1年で黒字を出すとは、
  その経営者としてのリーダーシップはどこで培われましたか。


坪内 父が自営業をやっていたこともあって、
   物心ついた頃からいつか起業したいと思っていました。


ただ、やるんだったら、「血の通った商売がしたい」と。


父は毎日忙しく、1か月に1度しか会わない生活もあったり、
当然運動会も参観日も来ない。


そういう環境で育って、働くとは一体何ぞや、
という思いがありました。


学生時代は海外に留学したこともあり、
CA(キャビンアテンダント)になろうと思って、
大手航空会社でインターンをしていました。


大学の講義を受けて、インターンをやって、
他のバイトもやって、お金に困ることもなく生活していました。


しかし、内定の一歩手前で体を壊して、
そこで人生考えたんです。


みんなと同じようにキャリア追求のような形でやってきたけれど、
私これで死んだら後悔するなって。


子供の頃からずっとあった


「働くために生きるのか、
 生きるために働くのか」


という問いを抱きながら結婚して、
後に萩に来て、


「ああ、ここだ。
 ここなら私が目指してきた経営ができる」


と思ったんです。


──念願だった「血の通った経営」ができると。


1年で黒字が出たといっても、
本当に小さく、徹底して経費をかけない経営をしています。


都会の企業と同じように、常に右肩上がりで
規模の拡大をしていくことを目標とするのは、
私のコンセプトに合いません。


もちろん仕事の規模が大きくなれば、
それに見合った人員の確保は必要ですが、
朝から晩まで家族と顔も合わせず働いて、
従業員の中から過労死や鬱病の人間が出たりするなら、
会社をやる意味ないですよね。


やっぱり働いている人たちが元気になる商売じゃないと。


うちの事例を知って、いま、漁労関係者や養殖事業の方々など、
たくさんの方が視察にいらっしゃいます。


「うち、やばいんです。
 助けてください」


と言って来られるのですが、
一通り見て帰られる時は、


「やれそうです」


と言って、笑顔でこの島から出ていかれます。


彼らにやれそうだと思ってもらうためにも、
まずは自分たちが物心ともに幸せでないと。


うちがそういう前例をつくって、
日本の水産を変え、業界の常識を変えていきたいと思っています。


──そうして日本の水産業界にもう一度
  花を咲かせたいということですね。


そうしたいですね。


時代の流れとか、環境のせいにして
言い訳している人たちも結構多いと思うんです。


「水産、厳しいから」
「もう、魚がいないから」って。


でも、厳しい水産の中でもうちはここまでやれています。


それは一般社会にも言えることで、
例えば親がこうだから、上司がこうだから、
社会がこうだからと嘆いても、
その責任は100%相手にあるんじゃなくて、
自分にもあると私は思うんですね。


なので、「自分の花を咲かせる」というテーマに関して言うと、
それは自分が自分の責任の下で、自分らしく生きること。


たとえ明日死んでも後悔のない生き方を
していくことだと思います。


一人ひとりがそうやって生きていけば、
日本はもっといい国になると思うし、
生きていて楽しい国になるだろうなって。


そして私たち一次産業は
本当に大きな可能性を秘めています。


その花を咲かせることで、
私自身の人生の花も咲かせていきたいと思います。


  * * *

漁業経験ゼロ、島の出身でもない、
20代の女性である坪内さん。

しかし、60人の漁師のほとんどが年上の男性。

当初、反発やぶつかり合いなど
人間関係のトラブルが絶えなかった中、
坪内さんはいかにして漁師たちの心を掴み、
信頼と成果を築き上げてきたのか──。


……続きはぜひ『致知』最新号(7月号)インタビューP44〜P48をご一読ください。

2014年06月14日(土)09:19 
┌───────今日の注目の人─────────┐



    「降りかかる逆境と試練が
     私の人生の花を咲かせた」
   

    塩見志満子(のらねこ学かん代表)


    ※『致知』2014年7月号
    特集「自分の花を咲かせる」より



└───────────────────────┘

──そこから学かんの立ち上げまでは
  どのように進むのですか。


一つのきっかけとなったのは私が38歳の時に、
小学2年生の長男を白血病で失ったことです。


白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。
「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。


そうすると痛みが少し和らぐ。
それを繰り返すわけですよ。


ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、
そんなこと言う子じゃないんですが
「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と大声で叫んだんです。


主治医の先生は30代のとても立派な方で
「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。


長男はその2か月半後に亡くなりました。
49日が済んだ後、主人と2人、
お世話をかけたその主治医の先生に
御礼を言うために病院に行きました。


ところが、いらっしゃらないんです。


聞いてみたら、長男が死んだ後、
「僕は小児がんの研究をするためにアメリカに渡る」と
すぐにその病院を辞められたと。


私たちは「ボロ医者」という長男の一言が、
この先生をいたく傷つけたかもしれないと思うと
申し訳なさでいっぱいでした。


後で知ったのには、その先生は10年間
アメリカで小児がんの研究をした後、
小児がんの権威となり日本の国立小児病院に帰ってこられたそうです。


いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。


──そうでしたか。


長男が小学2年生で亡くなりましたので、
4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、
私たちは


「ああこの子は大丈夫じゃ。
 お兄ちゃんのように死んだりはしない」


と喜んでいたんです。


ところが、その二男もその年の夏にプールの時間に
沈んで亡くなってしまった。


長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。


──プールの事故で突然……。


近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」と連絡があって、
タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。


子供たちが集まってきて
「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。


「どうしたんや」と聞いたら10分の休み時間に
誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまったと話してくれました。


母親は馬鹿ですね。


「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、
 学校も友達も絶対に許さんぞ」


という怒りが込み上げてくるんです。


新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、
同じく高校の教師だった主人が
大泣きしながら駆けつけてきました。


そして、私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。


「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。
 犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、
 過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、
 という罪を背負って生きてかないかん。

 わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、
 わしら2人が我慢しようや。
 うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、
 校医の先生に心臓麻痺で死んだという診断書さえ書いてもろうたら、
 学校も友達も許してやれるやないか。
 そうしようや。そうしようや」


私はビックリしてしもうて、
この人は何を言うんやろかと。


だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、
仕方がないと思いました。


それで許したんです。友達も学校も……。


──普通の人にはできないことだと思います。


こんな時、男性は強いと思いましたね。


でも、いま考えたらお父さんの言うとおりでした。


争うてお金をもろうたり、
裁判して勝ってそれが何になる……。


許してあげてよかったなぁと思うのは、
命日の7月2日に墓前に花がない年が1年もないんです。


30年も前の話なのに、毎年友達が
花を手向けてタワシで墓を磨いてくれている。


もし、私があの時学校を訴えていたら、
お金はもらえてもこんな優しい人を育てることはできなかった。


そういう人が生活する町にはできなかった。
心からそう思います。


──宝物のような我が子を2人も失うという大変な逆境を、
  よくぞ乗り越えてこられましたね。


でも、この苦しみは抜け出そうと思っても
なかなか抜け出せるものではありませんでした。


  * * *


その後、人生のパートナーであった
ご主人も交通事故で他界。

自分を一番近くで支え続けてきた最愛の人を失います。

塩見さんはその絶望的な状況をいかにして乗り越え、
いまも前を向いて歩み続けているのか。

塩見さんが語った「人生で大事な心構え」とは──。


……続きはぜひ『致知』最新号(7月号)インタビューP50〜P54をご一読ください。

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